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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヤークート・アル=ハマウィー( Yāqūt ibn-'Abdullah al-Rūmī al-Hamawī、1179年 - 1229年8月20日)は、イスラーム世界の地理学者、詩人。幼少期に奴隷として買い取られた後、学問を修めて見聞を広め、奴隷の身分から解放された後に辞典を著した。 当時の奴隷の名前には宝石の名前が付けられることが多く〔矢島『アラビア科学史序説』、248-249頁〕〔前嶋「ヤークート」『世界伝記大事典 世界編』11巻、300-301頁〕、彼の名の「ヤークート」はルビーを意味する〔。奴隷身分から解放された後、奴隷時代に付けられた名前を嫌って「ヤークーブ」と自称したが、その名前は一般には認知されなかった〔。 == 生涯 == 両親はビザンツ帝国(東ローマ帝国)生まれのギリシャ人であり、ヤークートはアナトリア半島で誕生した〔。幼い時に捕虜となったヤークートはバグダードで奴隷として売りに出され、ハマーの商人〔アスカルに買われた。 ヤークートはアスカルが付けた家庭教師から学問を習い、またアスカルの代理としてオマーン、シリア、ペルシャに旅に出た〔。20歳ごろにアスカルと仲違いをしたために追い出され、バグダードで写本を行い、その謝礼で生計を立てることになった〔。その間にも多くの本を読み、学者たちの講義を聞いて知識を深め、しばらくしてアスカルと和解した。アスカルの死後にヤークートは独立し、書店を開く。 1215年にダマスカスを訪れた時、4代カリフ・アリーの悪口を言ったために周りにいたアリー寄りの人間から襲われる羽目になった〔。命からがら逃げだしたヤークートはバグダードに戻らず、中央アジアのメルヴに向かった。 1218年ごろからヤークートは地理学辞典の構想を練りはじめ、メルヴの図書館で資料を収集する〔。1218年末にホラズム地方のヒヴァを訪れるが、翌1219年にモンゴル帝国がホラズム・シャー朝を攻撃する伝聞を知ると、研究資料を抱えながら慌てて西に避難した〔。 1220年にイラク北部のモースルに辿り着き〔、1224年に辞典の初稿を書き上げ、1228年に『地理学辞典』(諸国集成、Mu'jam Al-Buldan)を完成させた〔。ヤークートは死の直前まで『地理学辞典』の改訂を続け、1229年8月20日に没した〔。一説によれば、アレッポ郊外のキャラバンサライで没したといわれる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤークート・アル=ハマウィー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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