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ヤーコフ・プロタザーノフ : ミニ英和和英辞書
ヤーコフ・プロタザーノフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヤーコフ・プロタザーノフ ( リダイレクト:ヤーコフ・プロタザノフ ) : ウィキペディア日本語版
ヤーコフ・プロタザノフ[ちょうおん]

ヤーコフ・アレクサンドロヴィチ・プロタザノフ, 1881年1月23日 - 1945年8月8日)は、ロシア帝国ソビエト連邦(いずれも現ロシア)の映画監督脚本家俳優、ソビエト連邦の映画プロデューサーである。'', 1881年1月23日 - 1945年8月8日)は、ロシア帝国ソビエト連邦(いずれも現ロシア)の映画監督脚本家俳優、ソビエト連邦の映画プロデューサーである。
== 人物・来歴 ==
1881年(明治14年)1月23日、ロシア帝国(現在のロシア)のモスクワに生まれる。
1900年(明治33年)、商業学校を卒業し、商店で働き始める。資金を貯めて、1904年(明治37年) - 1906年(明治39年)に渡仏した。帰国すると、モスクワの映画配給・製作会社「グロリア」に助手として勤めた。
1910年(明治33年)、パウリ・ティマンと契約する。ティマンは、ウラジミール・ガルディン監督とともにサイレント映画を製作する人物である。ティマンの会社はすでに実績のある会社であったが、1914年(大正3年)には、戦争のために崩壊してしまい、プロタザノフは、ヨシフ・エルモリエフに雇われた。エルモリエフの会社で、『スペードの女王』(1916年)、『ペェター・セルギー』(1917年)を監督し、プロタザノフの代表作となった。1917年(大正8年)、十月革命を逃れてクリミヤ半島ヤルタへと移住するが、その後、映画産業は国営化され、多くがフランスへと移っていった。
1920年(大正9年)から、フランスのパテゴーモンで働き、ヴァイマル共和国(現在のドイツ)でも仕事をした。1923年(大正12年)、すでにソビエト連邦となっていた祖国に帰る決意をした。祖国では、『アエリータ』(1924年)、『三百万裁判』(1926年)などを撮った。1937年(昭和12年)、『持参金のない娘』がフランスでパリの金メダルを受賞した。
1943年(昭和18年)に引退した。1945年(昭和20年)8月8日、ソビエト連邦(現在のロシア)の首都モスクワで死去した。満64歳没。イワン・モジューヒンイゴール・イリンスキーミハイル・ジャロフら、スター俳優を発掘した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヤーコフ・プロタザノフ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yakov Protazanov 」があります。




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