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ユストゥス・リービヒ : ミニ英和和英辞書
ユストゥス・リービヒ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ユストゥス・リービヒ ( リダイレクト:ユストゥス・フォン・リービッヒ ) : ウィキペディア日本語版
ユストゥス・フォン・リービッヒ[ちょうおん]

ユストゥス・フォン・リービッヒ男爵(Justus Freiherr von Liebig, 1803年5月12日 - 1873年4月18日)は、ドイツ化学者。名はユーストゥスまたはユスツス、姓はリービヒと表記されることもある。有機化学の確立に大きく貢献した、19世紀最大の化学者の一人。
自らが研究していた雷酸塩 (AgONC) と、フリードリヒ・ヴェーラーが研究していたシアン酸塩 (AgOCN) は全く性質が異なるが分析結果が同じであったことから異性体の概念に到達した。燃焼法による有機化合物の定量分析法を改良してリービッヒの炭水素定量法を創始し、様々な有機化合物の分析を行った。ヴェーラーとともに苦扁桃油からベンゾイル基 (C6H5CO-) を発見し、有機化合物の構造をによって説明した。ほかにも、クロロホルムクロラールアルデヒドなどをはじめ多くの有機化合物を発見している。
応用化学においては、植物の生育に関する窒素リン酸カリウムの三要素説、リービッヒの最小律などを提唱し、これに基づいて化学肥料を作った。そのため、「農芸化学の父」とも称される。
また教育者としても抜きん出ており、体系だったカリキュラムに基づいた化学教育法を作り上げ、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンをはじめ多くの優秀な化学者を育成した。
彼が教授職を務めたヘッセン州のギーセン大学は、今日では「ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン」と彼の名を冠した名称に改められている。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
8歳のときにギムナジウムに入学したが、勉強よりも父親の仕事や実験を手伝うのが好きだったという。
リービッヒが生まれたダルムシュタットは、1806年に成立したばかりのヘッセン大公国の首都であり、宮廷所在地でもあった。宮廷図書館には大人向けの化学関連書籍がそろっており、学校よりも図書館を好んだ。学校の課題よりも化学に興味があったため、成績もよくなかった。
彼は雷酸水銀をギムナジウムに持っていっていたが、それが爆発を起こし、退学させられてしまった。1817年のことであった。
そこで彼はヘッペンハイムの薬剤師のもとへ徒弟として住み込むことになった。彼は居室として与えられた屋根裏部屋で雷酸塩の実験を続けていた。しかし、また爆発事故を起こしてしまい、ヘッペンハイムから追い出されて実家へと戻った。
その後、1820年にヘッセンの政府からの奨学金を受け、新設されたばかりのボン大学に入学しカール・カストナーの元で学んだ。彼は雷酸塩の研究を続けており無機化合物の分析法について学びたいと考えていたが、カストナーがこのテーマに明るくなかったためリービッヒは失望し、やがて学生運動に身を投じることになった。そして町の住民と衝突した際に、暴力を振るったために逮捕されてしまった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ユストゥス・フォン・リービッヒ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Justus von Liebig 」があります。




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