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ユリアーネ・ヘンリエッテ・ウルリケ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(, 1781年9月23日 - 1860年8月15日)は、ロシアの皇族、ロシア大公妃。コンスタンチン・パヴロヴィチ大公の最初の妻。ロシア語名はアンナ・フョードロヴナ()。 ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツとロイス=エーベルスドルフ伯女アウグステの三女としてコーブルクに生まれた。弟にザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世、フェルディナント(ポルトガル王配フェルナンド2世の父)、ベルギー国王レオポルド1世、妹にケント公夫人ヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの母)がいる。 コンスタンチン大公の花嫁探しをしていた女帝エカチェリーナ2世に選ばれ、わずか15歳で1796年に結婚。その9ヶ月後に女帝は亡くなった。 結婚生活は不幸だった。コンスタンチンは17歳で、粗野で子供っぽく、若い妻を惨めにさせるばかりだった。3年後の1799年、耐えられなくなったユリアーネは突然コーブルクへ帰った。間もなくロシアへ戻り、コンスタンチンと関係を修復しようとするが、うまくいかなかった。1801年、ユリアーネは浅はかな情事を起こしてコーブルクへ向かい、二度とロシアへ戻らなかった。 1808年10月、ユリアーネはエドゥアルトという男児を出産した。父親はフランスの下級貴族だった。1812年からスイスのベルンに移ったユリアーネは、第2子ルイーズを出産した。父親はユリアーネの警護をしていたスイス人だった。 1814年、コンスタンチン大公がユリアーネを連れ戻すべくロシアからやってきたが、彼女は拒絶した。その年、ユリアーネはベルンの近郊エルフェナウに領地を手に入れ、ここで残りの人生を過ごすことになった。 1820年に、19年の別居を経て、コンスタンチンとの結婚が無効になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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