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ユリウシュ・ザレンプスキ(Juliusz Zarębski, 1854年2月28日か3月3日 ジトーミェシュ(ジトームィル) - 1885年9月15日ジトーミェシュ)はポーランドのピアニスト、作曲家。 ショパン(1849年没)とシマノフスキ(1882年生)の間の時期に活躍したが、1885年に結核により31歳の若さで亡くなった。主な芸術活動はポーランド国外で展開されたため、後に自国におけるザレンプスキ研究は遅れを見ることとなった。また、このことはポーランド音楽史の文脈の顧みる上で、19世紀後半の部分に大きな間隙となった。 == 略歴 == ピアノの手ほどきを母親から受けたのち、地元ジトーミェシュでピアニストとしての専門教育を受けた。十代になると作曲に興味を持ち始め、16歳でウィーンに赴きピアノをJ. Dachsに、作曲をF. Krennに学んだ。六年の音楽院のコースを二年で、ピアノと作曲の両方で金メダルを得て修了した。19歳でペテルブルクに赴くが、二ヶ月の在学後に卒業試験に挑み、「優」の評価および「自由芸術家」の称号を得て修了する。 その後ピアニストとしてヨーロッパ中で演奏してまわっていたが、作曲家としてフランツ・リストから認められ、1874年から1875年の一年半の間、ザレンプスキは週に一度のレッスンを受けながらリストの指導の下で学んだ。 1878年のパリ万国博覧会のためにエドワード・マンジョーが開発した二段鍵盤のピアノ(一方の段は普通の鍵盤配列で、もう一方は鍵の配列を逆にした段で、左から高音の鍵、右から低音の鍵というもの)をザレンプスキは二ヶ月足らずでマスターし、C.グノー、C.サン=サーンス、A.トマ、L.ドリーブ、J.マスネといったフランスの傑出した作曲家達も参列する演奏会で自作を披露し喝采を浴びる。 1880年ブリュッセル王立音楽院の教授になり、生活の安定とともに作曲活動が活発化するが、31歳で病死するため正味5年しか作曲に専念できる時期は残されていなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユリウシュ・ザレンプスキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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