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ユリウス・シュプリンガー(Julius Springer、1817年5月10日 - 1877年4月17日)はドイツの出版事業者。 == 略歴 == シュプリンガー家はフランクフルト・アン・デア・オーダーに起源を持つ〔 〕。ユリウスの祖父は七年戦争終結後の1764年に交易特許状を得ており、こののち一家はプロイセン王国、ベルリンに引っ越した〔。1813年11月15日、ユリウスの父であるユダヤ人〔 〕のイジドール・シュプリンガー(Isidor Springer)はベルリン定住のための市民権を得、その2年後の1815年には商業特許状を得て商人となった〔。1815年、イジドールはマリアンネ・フリードレンダー(Marianne Friedländer)と結婚した〔。 1817年5月10日、イジドールとマリアンネはベルリンにて一人息子〔のユリウスをもうける〔。しかし、母マリアンネは出産後の産褥熱により、一人息子の誕生を喜ぶ暇もなくこの世を去った〔。 ユリウスは書店での年季奉公で出版のノウハウを学び〔、1842年、の(Breite Straße)20番街(現: 11番街)に自分の名を付けた小売書店を立ち上げた。これがのちに世界有数の学術出版社となるシュプリンガー・フェアラーク(Springer-Verlag)の始まりである。当時は自由主義を標榜する政治的パンフレット(ポリティカル・パンフレット(Pamphlet))〔や政治小説(Political fiction)を主に出版していた。 1848年、彼はプロイセン当局の検閲に違反した廉で逮捕された〔 "Das merkwürdige Jahr 1848"(「奇妙な年、1848年」)という、丁度当時シュプリンガー・フェアラークのあったブライテ通りでの1848年革命軍と当局との衝突の様子が挿絵として掲載されている。〕〔。しかし、直後にドイツ3月革命がベルリンに波及したため恩赦が下り、彼は反乱側に参加して当局に敵対する行動をとった〔。 彼は1867年から1873年までの会長を務めた。1869年から没年まで、彼はベルリン市議会議員であった。加えて彼はドイツ国内の著作権法事案、並びに国際的な著作権法規に関する先駆者の一人となった。 1877年4月17日、彼は死去した。その3日後の4月20日、亡骸はミッテにあるに納められた。のちに妻マリーもここに納められる。しかし墓は現存しない。 ユリウスの死後、シュプリンガー・フェアラークは彼の息子、(Ferdinand Springer senior)とフリッツ・シュプリンガー(Fritz Springer)が引き継いだ。これ以降同社は多くの学術分野、とりわけ数学など自然科学分野の書籍出版に特化するようになる〔 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユリウス・シュプリンガー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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