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フラウィウス・ユリウス・ネポス(Julius Nepos〔Martindale 1980, ''s.v. Iulius Nepos (3)'', pp. 777–778〕、Flavius Julius Nepos 430年 - 480年)は西暦5世紀のローマ皇帝、および帝位請求者。皇帝としてはホノリウス帝から数えて12人目となる西ローマ皇帝(西方皇帝)で、外戚関係にあるレオ朝出身の皇帝に加える場合もある。475年8月28日以降にダルマティアへ逃れてからは対立皇帝として西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスへの抵抗を続けた。アウグストゥルス帝退位後も皇帝称号を使用しており、何人かの歴史家は東ローマ皇帝ゼノンなどの承認を得ていた点から、彼の帝位請求が正当であったと考えている。 ダルマティア総督領を支配する将軍の甥として生まれる。テオドシウス朝断絶後、帝位簒奪が続いていた西方帝位においてユリウス・ネポスは東ローマ皇帝位にあった妻の叔父レオ1世の支持を得て挙兵した。レオ1世の支援は大義名分を得る上で大きな力を発揮し、ネポスのもラテン語で「甥」を意味すると考えられている。 ネポスが挙兵に及ぶとたちまちブルグント軍は逃散してしまい、後ろ盾を失ったグリケリウス帝は退位を宣言した。ネポスはグリケリウスを助命してダルマティアへ追放した後、自らが西方帝位を継承した。この時、ローマ帝国の西方領土は蛮族の侵入によって縮小していたが、未だイタリア本土とダルマティア、そしてガリア地方に幾つかの領地を押さえていた。しかしネポス帝の支配が本格化するより前に蛮族出身の軍師オレステスの反乱に遭い、短期間で帝都を追われる結末となった。 帝都を追われた後、ネポス帝は一族の領地であるダルマティアに逃れ、同地の実効支配を通じて抵抗を続けた。対するオレステスは自らがローマ人の妻に産ませた息子ロムルス・アウグストゥルスを即位させ、院政を布いた(自らが即位しなかった理由については諸説あるが、確かな事は不明である)。ローマ法においても不当行為であるアウグストゥルス帝の即位を共同君主たる東ローマ皇帝ゼノン(レオ1世の娘婿)は承認せず、全面的にネポス帝の行動を支持した。476年、オレステスが異なる蛮族の指導者オドアケルと待遇面で対立した末、殺害されるとアウグストゥルス帝は退位して帝都を去った。 オドアケルもまた、オレステスと同じく自らが皇帝になるという選択肢は取らなかったし、ゼノンもネポス帝復帰への支持を変えなかった。オドアケルはネポス帝を迂回してレオ1世と直接交渉するべく、形骸化していた元老院を復権させて彼らに陳情を行わせた。オドアケルは西方帝位の称号をレオ1世に返却し、自らはその臣下として従いたいと嘆願した。レオ1世はオドアケルをドゥクス(地方司令官、公爵の語源)に叙任、またイタリア本土の実効支配を委ねる判断を下した。一方に条件として自身の共同君主たるネポス帝にも忠誠を誓う様に要求して、オドアケルは渋々ながらもこれを認めて鋳造する貨幣にネポス帝の名を刻印させた。形式的には「ゼノン→ネポス→オドアケル」の構図であったが、ネポス帝はダルマティアに留め置かれており、オドアケルも建前上の君主として彼を扱った。 こうした状況下は4年ほど継続したが、480年にネポス帝が暗殺された事で終焉を迎えた。暗殺はオドアケル、もしくはグリケリウスによる行為と考えられている。 ==生い立ち== ===出自=== 広く受け入れられている説として〔Drinkwater & Elton 2002, pp. 24-25〕、ローマ帝国の貴族(伯、)であったの息子フラウィウス・ユリウスとして生まれたと考えられている。後にネポティアヌスは皇帝から軍務長官の一人に指名され、461年から南ガリアやヒスパニアの帝国領に派遣、465年に任地で死没したと記録されている〔Martindale 1980, ''s.v. Nepotianus (2)'', p. 778〕。母は父と同じ軍務長官としてダルマティア総督を務めるの妹であったと伝えられている、ヨルダネスが頻繁にコムスの記述を引用する点から単に書き写された可能性も考えられている〔。どうあれマルケリヌスの甥である事と、ローマ貴族の一員であった点については可能性が高いと考えられている。 叔父マルケリヌスの存在はネポスの台頭において重要であった。偉大な将軍として知られるフラウィウス・アエティウスの配下として従軍し、皇帝ウァレンティニアヌス3世がアエティウスを暗殺した際に反乱を起こした将軍の一人であった。以来、マルケリヌスはダルマティア地方に強固な地方軍閥を作り上げ、テオドシウス朝断絶後も諸皇帝から独立した自治権を持つ存在としてダルマティアを承認させ、その総督として君臨していた。蛮族出身の軍務長官リキメルの専横に対して、アンテミウス帝から重臣として迎えられていた。468年、マルケリヌスはリキメルによってシチリア滞在中に暗殺された〔Martindale 1980, pp. 708-710, ''s.v. Marcellinus (6)''〕〔A. Kazhdan 1991, p. 1081, ''s.v. Julius Nepos''〕〔O'Flynn 1983, pp. 116-118〕。 またネポスという名はダルマチアにおいて際立った権威を持つ一族に由来するかもしれない。ダルマティアにおいてはアエリア・ネポテス、アリア・ネポス、ユリウス・ネポス、ネポテスと四人の名が刻まれた貴族の記念碑が発見されている。またサロナにある教会の碑銘にもユリウス・ネポスが生まれる以前にネポスの名が既に使用されている〔MacGeorge (2002), p. 42〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユリウス・ネポス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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