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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
川口 悠子(かわぐち ゆうこ、, , 1981年11月20日 - )は愛知県出身、千葉県船橋市育ちのロシア、日本の女性フィギュアスケート選手(ペア及び女子シングル)。パートナーはアレクサンドル・スミルノフ、アレクサンドル・マルクンツォフなど。 ペア競技では、ロシア代表として出場の2010年バンクーバーオリンピックで4位入賞。2009年世界選手権・2010年世界選手権では2年連続で3位。2010年・2015年欧州選手権優勝。 == 経歴 == 5歳のころにスケートを始め、小学校3年生から本格的にスケートに取り組んだ。当初は女子シングル選手として活動し、1997年全日本ジュニア選手権女子シングルで3位となり、1998-1999シーズンからはISUジュニアグランプリに参戦。JGPメキシコ杯では優勝を果たした。同シーズンの全日本ジュニア選手権ではSPから精彩を欠き総合10位に留まった。 1998年の長野オリンピックに出場したエレーナ・ベレズナヤを見て「自分もエレーナのようになりたい」と思い、現コーチであるタマラ・モスクビナにすぐに手紙を送り、その後も何度もコーチをして欲しいと嘆願した。モスクビナは「ロシアに来るには難しいし、治安も悪い。無理だ」と川口を諦めさせようとしたが、川口が諦めずに何度もお願いしてくるため「自分と一緒にトレーニングするのは、大変である」ことを判らせようと2つの難しいテストを行った。そのテストに川口は合格し、モスクビナの元でトレーニングすることを許可された。1999年にモスクビナのいるアメリカに渡った。 1999-2000シーズンよりアレクサンドル・マルクンツォフとペアを組みペアスケーティングへ転向、1999年全日本ジュニア選手権では優勝を飾る。翌2000-2001シーズン、ISUジュニアグランプリに参戦し、JGPメキシコ杯で優勝、JGPハルビンで3位となり初出場のJGPファイナルではペア日本代表選手として初表彰台となる3位。2001年世界ジュニア選手権では、ペア日本代表選手として初の表彰台となる銀メダルを獲得した。 2001-2002シーズンからシニアクラスに完全転向し、ISUグランプリシリーズに出場。第70回全日本選手権ならびに第71回全日本選手権で連覇を果たしたが、2003年5月、アレクサンドル・マルクンツォフとのペアを解消。同年9月にロシアのサンクトペテルブルク大学に入学。 2004年夏、デヴィン・パトリックと新たにペアを結成し、2004-2005シーズンより競技会に復帰した。第73回全日本選手権で優勝。翌2005-2006シーズンからは所属をアメリカに移し、2006年全米選手権に出場するが15位に終わり、シーズン後にデヴィン・パトリックとのペアを解消した。 2006年4月アレクサンドル・スミルノフとペアを組み、2006-2007年シーズンよりロシア所属となる。同シーズンのロシア杯で3位、2007年3月ロシア代表として世界選手権に出場し、9位。ロシアが同国籍を持たない選手を代表に選出したのは初めてであった。 2007-2008シーズンはスケートカナダ、ロシア杯ともに3位となり、初のグランプリファイナル進出を決めた。グランプリファイナルではSPとFSともに転倒があり5位に終わった。2007年にサンクトペテルブルク大学を卒業する。これにより、日本語、英語、ロシア語のトリリンガルとなった。ロシア選手権で初優勝を飾り、欧州選手権と世界選手権のロシア代表に選出された。欧州選手権ではSPで4位スタートとなったものの、FSで3位となり総合3位、初出場でメダルを獲得した。また昨年に続いて出場となった世界選手権では大きくパーソナルベストを更新してメダルまであと一歩に迫る4位となった。 2009年1月、バンクーバーオリンピックにロシア代表として出場することを目指し、同国の国籍を取得した〔共同通信配信記事ほか、「フィギュア川口 ロシア国籍取得 ペアで五輪メダル目標」として『朝日新聞』2009年1月18日付朝刊、第14版、第17面に掲載〕。 日本は二重国籍を認めないため「国籍が日本でなくなるということは重大な決断なので、そうするからには五輪でメダルを取りたい」と発言〔Press Net Japan〕。 世界選手権ではSP2位、FS3位となり総合3位となった。 2010年1月、欧州選手権ではSP、FS、総合得点の全てにおいてパーソナルベストを更新して初優勝。FSではISU歴代最高得点も更新した。 2010年2月、バンクーバーオリンピックにロシア代表として初出場。SPでは3位の好発進だったが、FSではミスが重なり総合で4位入賞となった。FSではスロー4回転サルコウに挑戦するつもりであったが、演技直前にコーチに回避するよう命じられ、気持ちの切り替えができないまま演技に臨んだという〔「川口ぼう然4位…ロシア50年ぶり屈辱」『スポーツニッポン』2010年2月17日〕。続く2010年世界選手権では2年連続の総合3位となった。 2010年4月、肩の手術を行った〔〕。また、スミルノフは股の付け根部分を負傷したために、ドイツで治療を受けた〔Kavaguti & Alexander Smirnov Find New Motivation 〕。その後、スミルノフがかかとを捻挫し、2人の治療のためにスケートカナダの出場を取り止めた。その後、ロステレコム杯で復帰し優勝をした。東日本大震災の影響で急遽、ロシアへ開催地が変更となった世界選手権では4位入賞。エキシビションでは日本への思いを込めて「いつも何度でも」を滑った。 2011-2012シーズン、グランプリシリーズに3戦出場。グランプリファイナルでは初のメダルの銅メダルを獲得。ロシア選手権はグランプリファイナルの前から痛めていたスミルノフのひざの怪我のために欠場〔〕。さらに出場を予定していたヨーロッパ選手権は、スミルノフの盲腸炎の緊急手術のために欠場した〔〕。世界選手権ではSPでリフト中にスミルノフが転倒し11位と出遅れた。FSでは4位と巻き返したものの同じくリフトで大きなミスを犯した。総合では7位に終わった。 2012-2013シーズン、欧州選手権はペア結成以来初めてメダルを逃した。世界選手権ではSP4位だったが、FSの最後のリフトでフェンスに接触し失敗。順位を6位に落とした。 2013-2014シーズン、国内大会のパニンメモリアルでスミルノフが3回転トゥループを転倒。その時に断裂した膝の靭帯の手術のために、スケートカナダとNHK杯の出場を辞退した〔〕。怪我からの復帰は間に合わず、シーズン全ての試合を欠場することになった。このシーズン限りでの引退を予定していたが平昌オリンピックを目指し、現役を続行することを決めた〔〕。 2014-2015シーズン、復帰戦のネーベルホルン杯で優勝。グランプリシリーズのスケートアメリカでは自身初めてスロー4回転サルコウでマイナス評価を受けない実施をした。5シーズンぶりにFSのパーソナルベストを更新し優勝した。この優勝により史上5組目のグランプリシリーズ全6戦の優勝者となった。欧州選手権ではSP2位から逆転して、5年ぶり2度目の優勝を果たした。2年ぶりに出場の世界選手権のSPはミスの無い演技で4位につけた。しかしFSではスロー3回転ループの転倒をはじめ精彩を欠き5位に順位を落とした。 2015-2016シーズン、グランプリファイナルでは5年ぶりに銅メダルを獲得。ロシア選手権では3位にSPで0.05点差、FSでは0.07点差の2位で僅差をかわして銀メダルを獲得した。この結果、欧州選手権と世界選手権の代表に内定した。1月20日、アキレス腱の断裂により欧州選手権の代表を辞退し手術を行った〔〕〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川口悠子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yuko Kavaguti 」があります。 スポンサード リンク
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