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ユーゴスラビア人民解放戦争(セルビア・クロアチア語:、マケドニア語:、スロベニア語:)、あるいはユーゴスラビア戦線(セルビア・クロアチア語:、マケドニア語:、スロベニア語:)は、第二次世界大戦(1941年 - 1945年)中に枢軸勢力支配下のユーゴスラビアで発生した戦争である。1941年にユーゴスラビア王国が枢軸勢力による侵攻を受け、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアおよびこれらの傀儡国家によって分割されたことに対して、人民解放戦争が始められた。この戦争は主にゲリラ戦術を取り、枢軸国およびその傀儡国家であるクロアチア独立国やセルビア救国政府などに対する解放戦争として進められたものである。また同時に、共産主義を標榜するパルティザンと、反共主義のチェトニクや(ドモブランツィ)などの軍事組織との内戦でもある。こうした反共主義の軍事組織と枢軸勢力との協力関係の度合いは様々であった。 戦争初期には、ユーゴスラビア・パルティザンとチェトニクは共に占領に対して武力で抵抗を図った。しかし1941年にチェトニクは「協力政策」を採択し、イタリアが降伏するまでイタリアの占領軍と協力関係をとり、その後はドイツ国防軍やウスタシャと協力関係に入った〔 p. 145: 「チェトニクの政治綱領と協力の拡大は詳細にわたり、膨大な記録が残されている。チェトニクは民族的に純粋な大セルビアを実現するために行動し、これを手っ取り早く推進するために枢軸軍との「協力政策」を採用した。いまだに、チェトニクがこれ以外のことをしていたと考える人々が見られるのは、少なからず残念なことである。1943年9月にイタリアが降伏するまで、チェトニクは大規模に、かつ体系的にイタリア軍と協力し、1944年初頭にはドラジャ・ミハイロヴィッチ率いるチェトニク一派は公然とセルビアやクロアチアにおいてドイツ軍やウスタシャと協力した。〕〔 p.246: チェトニクの枢軸勢力への協力についての総論として「体系的かつ持続的」としている: 「この研究ではチェトニクの体系的かつ持続的な協力について述べる」〕。 枢軸軍は7次におよぶ反パルティザン攻勢によってパルティザンの壊滅を試み、1943年のネレトヴァの戦いやスティエスカの戦いでは壊滅寸前にまで追いやった。しかしパルティザンは撤退はしたもののその後も十分な戦力を保持し続け、テヘラン会談において西側連合諸国による支援が決まり、またユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議を興して終戦後のユーゴスラビアの統治体制の枠組みまで決定した。その後は西側諸国からの補給、装備、訓練、航空支援を受け、またベオグラード攻勢ではソビエト赤軍の支援も受けて、パルティザンはユーゴスラビア全域での統制を獲得、イタリアのトリエステ(トルスト)、オーストリアのケルンテン州(コロシュカ)にまで迫った。 戦争による人的被害は膨大であった。戦争の正確な被害者数はいまだに異論があるものの、一般的には少なくとも1百万人以上と見積もられている。非戦闘員の被害者には、域内に住むユダヤ人などがあり、その多くがヤセノヴァツ強制収容所やバニツァ強制収容所などの絶滅収容所・強制収容所に送られ、死亡した。また、ウスタシャ体制のクロアチア独立国では、セルビア人やロマに対するジェノサイドを政策として実行し、チェトニクはムスリム人、クロアチア人に対する民族浄化を、イタリアの占領当局はスロベニア人に対する民族浄化を行った。ドイツの占領軍は抵抗運動への報復として多くの一般市民に対する無差別処刑(など)を行った。そして、戦中および戦後には、パルティザンによる報復が行われ、の強制追放や、退却を試みる枢軸軍およびその協力者とみられた市民に対する死の行進の強制と処刑()、イストラ半島におけるイタリア人市民の殺害()などが発生した。 == 背景 == 1941年4月6日、ユーゴスラビア王国は、ドイツやイタリア、ハンガリー、ブルガリアといった枢軸国により全方位から侵略された。この侵略ではなどにより10日前後で終結し、は無条件降伏に追いやられた。ユーゴスラビア王国軍はドイツ国防軍と比べて装備が貧弱であったことに加え、あらゆる方面からいっせいに侵入する枢軸勢力と戦うにはあまりに規模が小さすぎた。また、ユーゴスラビアの枠組みに反対する立場の住民は、ドイツを政府の抑圧からの解放者として歓迎した。こうした動きが南スラヴ人の統一国家であるユーゴスラビアという枠組みに対する立場の違いを表すのと同様に、占領軍に抵抗する者もまた立場の異なる2つの組織を発足させた。ひとつは王党派のチェトニクであり、もうひとつは共産主義者のパルティザンであった〔Tito, Mihailovic and the Allies by Walter Roberts (p. 26)〕。 スロベニア人、クロアチア人はいずれも、セルビア人の王家であるカラジョルジェヴィチ家を頂くユーゴスラビア王国の存続のために戦おうとはしなかった。ユーゴスラビア王国のために戦う者はセルビア人のみであった〔Shaw, 1973, p.92〕。セルビア人の参謀たちはユーゴスラビアを「大セルビア」とみなしており、侵略の前夜に165人いたユーゴスラビア王国軍の将官のうち4人を除いてはすべてセルビア人であった〔Shaw, 1973, p.89〕。 枢軸国によるユーゴスラビア支配は極めて過酷なものであり、ユーゴスラビアは領土をばらばらに解体された。ドイツはスロベニアの主要部を併合し、また傀儡政権として設立されたセルビア救国政府の領域を占領するとともに、クロアチア独立国などの傀儡国家に対しても影響力を及ぼした。クロアチア独立国はこんにちのクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ、さらにセルビアのスレム地方を領土とした。ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国はスロベニアの南部、コソボ、そしてダルマチアの沿岸部およびアドリア海の島々を手に入れた。またイタリアは傀儡国家・モンテネグロ独立国を設置して支配下に置き、またイタリア王家はクロアチア独立国の王位を手に入れた。ハンガリー王国はバラニャや、バチュカなどのヴォイヴォディナの一部、クロアチアのメジムリェ地方、スロベニアのプレクムリェ地方を併合した。ブルガリア王国は、こんにちのマケドニア共和国に相当する地域の大部分、およびセルビア東部とコソボの一部を併合した〔Tomasevich (2001), pp. 61-63〕。ユーゴスラビア王国の解体とクロアチア独立国、モンテネグロ独立国、セルビア救国政府といった傀儡政権の樹立、枢軸国による占領と併合は、当時の国際法にも反するものであった。 1943年のイタリアの降伏以降、イタリアの支配下にあった土地はナチス・ドイツあるいはウスタシャの支配下となった。コソボ、アルバニア、モンテネグロ独立国、そしてイタリア領ダルマチアなどがこれに該当する。 開戦後のこの地域の地位は不明瞭な状態となった。連合国はユーゴスラビア王国の亡命政府を承認していたが、枢軸国は自分たちによる地域の分割と傀儡国家を承認していた。 1943年後期にパルチザンが戦中のユーゴスラビアの政府機関としてユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)を設立した際、連合国はこれを承認し、その後パルティザン主体のユーゴスラビア民主連邦も承認された。1943年末のテヘラン会談では、パルチザンはユーゴスラビア人民解放軍として連合国からその地位が認められた〔Rendulić, Zlatko. ''Avioni domaće konstrukcije posle drugog svetskog rata'' (Domestic aircraft construction after World War II), Lola institute, Beograd, 1996, p 10. "1943年11月28日から12月1日にかけて、連合国の主要3国がそろい、そして初めてアメリカ合衆国が加わったテヘラン会談において、ユーゴスラビア人民解放軍は連合国の軍として承認された"〕。新しく認められたユーゴスラビア政府は、パルティザンのヨシップ・ブロズ・ティトーを首相とし、AVNOJのメンバーと、ロンドンにある王国の亡命政府のメンバーの双方から構成されていた。新しいユーゴスラビアが王国のままとなるか共和国となるのか、そして国王ペータル2世の地位をどうするのかといった根本的な課題は、終戦後へと先送りされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユーゴスラビア人民解放戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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