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ユーディト・フォン・アルトドルフ : ミニ英和和英辞書
ユーディト・フォン・アルトドルフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ユーディト・フォン・アルトドルフ : ウィキペディア日本語版
ユーディト・フォン・アルトドルフ[ちょうおん]

ユーディト・フォン・アルトドルフJudith von Altdorf〕, 795〔Armin Koch, Kaiserin Judith: eine politische Biographie (Historische Studien 486), Husum 2005. S. 35. (Verweis auf die Ehemündigkeit frühestens ab dem 12. Lebensjahr)〕/807年〔Allen Cabaniss, "Judith Augusta and Her Time." University of Mississippi Studies in English 10 (1969), S. 67-109, S. 70. (Verweis auf die Eheschließung nach der Krönung Karls des Großen im Jahr 800)〕 - 843年4月19日)は、フランク王西ローマ皇帝ルートヴィヒ1世(敬虔帝)の2番目の妃。817年の帝国整序令Ordinatio imperii)に基づく領土分割に異議を唱えたことで、カロリング家内の領土相続争いの発端を作った。
== 生涯 ==
古ヴェルフ家の始祖であるシュッセンガウ伯ヴェルフ1世とその妻でザクセン人貴族出身のハイルヴィヒ(Heilwig)の間の娘として生まれた。父方の一族は先祖代々アルトドルフ(現在のドイツバーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン行政管区ラーフェンスブルク郡ヴァインガルテン)を本拠としていた。妹のヘンマは後に、ユーディトの継息子である東フランク王ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)に嫁いでいる。
819年2月、最初の妃エルマンガルド・ド・エスベイと死別したルートヴィヒ敬虔帝の後妻に選ばれ、結婚した〔Ernst Tremp (Hrsg.): Scriptores rerum Germanicarum in usum scholarum separatim editi 64: Thegan, Die Taten Kaiser Ludwigs (Gesta Hludowici imperatoris). Astronomus, Das Leben Kaiser Ludwigs (Vita Hludowici imperatoris). Hannover 1995, S. 393 〕〔Ernst Tremp (Hrsg.): Scriptores rerum Germanicarum in usum scholarum separatim editi 64: Thegan, Die Taten Kaiser Ludwigs (Gesta Hludowici imperatoris). Astronomus, Das Leben Kaiser Ludwigs (Vita Hludowici imperatoris). Hannover 1995, S. 215〕。ユーディトは意志が強く、美しい姫だった。結婚の贈り物に、ユーディトは夫からブレシアサン・サルヴァトーレ修道院領を封土(レーエン)として与えられた。皇后は夫の皇帝に対して大きな影響力を持ち、さらに実家の古ヴェルフ家の権勢を高めるのに大いに貢献した。
ユーディトは823年に息子のシャルル(禿頭王)を出産すると、自分の息子にも夫の領土の一部を相続させることを望んだ。しかし既に817年の帝国整序令Ordinatio imperii)により、ルートヴィヒ敬虔帝の所領は、エルマンガルド所生の3人の息子ロタール1世ピピン1世、ルートヴィヒ2世の間で分割されると定められていた。
ユーディトの野心的な振る舞いは貴族層の反発を引き起こした。皇后はバルセロナ伯ベルナトとの姦通を疑われ、830年にポワチエの修道院に追放された〔Ernst Tremp (Hrsg.): Scriptores rerum Germanicarum in usum scholarum separatim editi 64: Thegan, Die Taten Kaiser Ludwigs (Gesta Hludowici imperatoris). Astronomus, Das Leben Kaiser Ludwigs (Vita Hludowici imperatoris). Hannover 1995, S. 223〕。ユーディトはナイメーヘンでの帝国会議(830年10月)の後、ようやく夫の許に戻ることが出来た。833年にコルマール郊外のリューゲンフェルト(Lügenfeld)でルートヴィヒ敬虔帝が年長の息子たちに退位させられる事件が起きると、ユーディトはトルトーナ亡命した。834年に夫が復権するとともに、アーヘン宮廷に帰還した。
ユーディトは息子シャルルに相応の相続分を獲得しようと、2人の継息子ロタール1世とルートヴィヒ2世を手を結んだり、離反しながら目的を達そうとした。840年にルートヴィヒ敬虔帝が死んだ際も相続に関する何の遺言も残さなかったため、依然として兄弟間の戦争が続く中で、シャルルは比較的不利な立場に置かれた。ユーディトの精力的な支援が実を結び、シャルルは843年8月のヴェルダン条約締結時に、帝国西部に広大な領土を確保することが出来た。ユーディト自身は、条約締結の4か月前にトゥールのサン・マルタン教会で没した〔RI I, 2,1 n. 361 , BÖHMER, J. F./ MÜHLBACHER, E., Regesta Imperii, Die Regesten des Kaiserreichs unter den Karolingern 751-918, RI I, 2,1 n. 361.〕。
ユーディトに対する同時代人の評価は相反している。ヴァラフリート・ストラボラバヌス・マウルスはユーディトを高く尊敬しており、リヨンのアゴバルトコルヴァイのワラ(カロリング家の成員)は彼女を諸悪の根源としている。歴史研究者の評価もまた、振り幅が大きい。19世紀や20世紀初頭には、自分の息子可愛さに、カロリング家の帝国を崩壊に導いた者として、他の家族とともに非難された。一方で、息子の権利を守ることや、未亡人となった後の没落を防ぐための彼女の行動は当然のことであり、カロリング帝国の崩壊に彼女が及ぼした役割は、実際よりも強調されているという擁護論が最近では有力である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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