|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ヨアキム・ヨハンソン(Joachim Johansson, 1982年7月1日 - )は、スウェーデン・ルンド出身の男子プロテニス選手。2004年の全米オープンで男子シングルスのベスト4に入り、世界ランキング9位まで到達した選手である。彼には「ピム・ピム」(''Pim-Pim'')というニックネームがある。身長198cm、体重90kgの長身から繰り出すサービスを最大の武器にしている。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げた。 == 選手経歴 == 父親のレイフ・ヨハンソンは、1974年に1年間男子テニス国別対抗戦・デビスカップのスウェーデン代表選手を務めるほどの実力者だった〔Davis Cup - Player profile 〕。 ヨアキムは幼い時から父親にテニスを習い、当時スウェーデンの国民的英雄だったビョルン・ボルグの故郷のセデーテイェで少年時代を過ごした。彼に「ピム・ピム」という愛称がついたのは、子供の頃に(彼の兄と、本人が)「ヨアキム」(Joachim)という名前を正しく発音できず“ヨアピム”(Joa-''pim'')と呼ぶ癖がついて、それが定着したからだという。スウェーデンには「ピム・ピム」という名前の菓子もあり、ヨアキム・ヨハンソンはジュニア時代から“ピム・ピム・ヨハンソン”と呼ばれるようになった。2000年に18歳でプロ入りした後、3年間男子テニスツアー下部組織の大会を回り、2003年の全豪オープンで4大大会本戦に初出場。この年から、彼はデビスカップのスウェーデン代表選手に選ばれた。 2004年、ヨハンソンは男子ツアーで目覚ましい躍進を見せ、2月中旬のアメリカ・テネシー州メンフィス大会決勝戦でニコラス・キーファー(ドイツ)を破り、ツアー初優勝を果たした。その後ウィンブルドンで初の4回戦に勝ち進み、アテネ五輪にもスウェーデン代表選手として出場する。オリンピックでは、シングルス2回戦でイワン・リュビチッチ(クロアチア)に敗れた。そして、彼のハイライトとなった2004年全米オープンを迎える。ヨハンソンは第28シードとして勝ち進み、準々決勝で前年度優勝者のアンディ・ロディック(アメリカ)を6-4, 6-4, 3-6, 2-6, 6-4で破り、ロディックの全米連覇を阻止する勝利を挙げた。続く準決勝ではレイトン・ヒューイット(オーストラリア)に4-6, 5-7, 3-6 で敗れ、決勝進出を逃した。こうして、ヨアキム・ヨハンソンは1年間で世界ランキングを95位から11位に上げ、男子プロテニス協会の2004年度「最も進歩した選手賞」(Most Improved Player of the Year)を受賞した。 2005年、ヨハンソンは1月のネクストジェネレーション・アデレード国際と2月のフランス・マルセイユ大会で優勝し、2月14日付で世界ランキング「9位」に入った。全豪オープン4回戦で、ヨハンソンがアンドレ・アガシ(アメリカ)から「51本」ものサービス・エースを奪いながらも、結局セットカウント1-3で敗れた試合は語り草になっている〔Match Facts 〕。 ところが、世界トップ選手の仲間入りを果たしてすぐに、彼は右肩の故障を抱えるようになる。ウィンブルドン3回戦でフェルナンド・ゴンサレス(チリ)に敗れた後、直後のスウェーデン・ボースタード大会に出場し、ヨナス・ビョルクマンと組んだダブルスで優勝した。これが彼の唯一のダブルス・タイトルである。ボースタード大会の終了後、ヨハンソンは右肩の手術を受け、2005年後半の試合に出場できなくなった。手術後の経過が思わしくなく、その後も度重なる故障と病気に悩み、2004年の好調時のようなテニスを取り戻すことができなかった。 2007年1月、ヨハンソンに一時復調の兆しが見えた試合があった。2年前の2005年に優勝した年頭のアデレード大会で、彼は当時19歳のノバク・ジョコビッチ(セルビア)との準決勝まで勝ち進んだ。しかし、すぐ後の全豪オープンは1回戦の第1セットで、2ゲームだけで途中棄権に追い込まれる。同年10月のスウェーデン開催大会「ストックホルム・オープン」が、当年度の最後の試合出場になった。度重なる故障や病気から回復できず、“ピム・ピム・ヨハンソン”ことヨアキム・ヨハンソンは、2008年2月に現役引退会見を開いた。 引退会見の後、ヨハンソンはジュニア選手のコーチなどに携わりながらリハビリに励んでいた。10月のストックホルム・オープンにて、当初出場予定だったロジャー・フェデラーが欠場したため、その代役として急遽出場することになる。ヨハンソンにとっては、前年の同大会以来ちょうど1年ぶりのツアー出場だった。この大会では、1回戦でフランスのニコラ・マユに 7-5, 7-6で勝った後、続く2回戦で第1シードのダビド・ナルバンディアン(アルゼンチン)に 3-6, 2-6 で敗れた。その後も本格復帰には至っていないが、2009年以降もエキシビジョン大会やチャレンジャー大会に出場するなど断続的なツアー参加を行った。 2011年のロシアとのデビスカップ1回戦に出場し、ティムラズ・ガバシュビリを 6-3, 7-6(4), 6-4 で破りチームの勝利に貢献した。しかし、2011年3月18日に28歳で2度目の現役引退を発表した〔Demotivated Johansson quits again 〕。 2013年10月、2年半ぶりに現役復帰し地元のストックホルム・オープンのシングルス予選に主催者推薦で出場した。予選3試合を勝ち上がり1回戦でアレハンドロ・ファジャを 6-1, 6-3 で破り2回戦でミロシュ・ラオニッチに 2-6, 6-7(3) で敗れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨアキム・ヨハンソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|