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ヨシフ・ニコライエヴィチ・エルモリエフ(, 1889年3月24日 - 1962年2月20日)は、ロシア帝国(現ロシア)・フランスの映画プロデューサーである。アメリカ合衆国では、ジョゼフ・N・エルモリーフ(Joseph N. Ermolieff)として知られる。'', 1889年3月24日 - 1962年2月20日)は、ロシア帝国(現ロシア)・フランスの映画プロデューサーである。アメリカ合衆国では、ジョゼフ・N・エルモリーフ(Joseph N. Ermolieff)として知られる。 == 人物・来歴 == ロシア帝国(現ロシア)に生まれる。モスクワ大学法学部在学中の1907年、パテ兄弟社モスクワ支店に若年技術者として採用された。1年後には販売部門の責任者、3年後にはロシアにおける同社の最高経営責任者になっていた。1912年、ロストフ・ナ・ドヌで、サイレント映画製作の専門会社「エルモリエフ・サルヒン・セゲーリ商会」を創業した。 1915年、モスクワで、エルモリエフ商会を設立、120本以上の映画を製作した。1917年の十月革命後、クリミア半島に移った。同地域にはまだボリシェヴィキが支配しておらず、ヤルタに支社を設立した。 その後白軍は駆逐され、1919年8月令をもって、レーニンは、1920年2月15日、映画産業を国有化した。エルモリエフは、自社の俳優と技術者を連れてロシアを離れ、ギリシア籍の商船に乗り込み、コンスタンティノープル経由でフランスを目指した。 同年8月、パリ郊外のセーヌ=サン=ドニ県モントルイユにある古いパテ撮影所内に法人を設立した。同法人は「ソシエテ・エルモリエフ=シネマ」と命名、当時の金額で100万フランを資本金のために調達し、そのうちの70%をエルモリエフ自身が出資した。以降2年間で40作以上の映画を製作し、1922年の秋、ドイツに移った。エルモリエフの仲間であるアレクサンドル・カメンカとノーエ・ブロッシュは「アルバトロス社」を設立、同社は1920年代末までに、フランス映画界に重要な役割を果たした。 エルモリエフは、同年から1928年までにドイツ映画を大量生産した。とくにミュンヘンでは、「エルモリエフ=フィルムGmbkh」を設立している。やがてトーキーの時代が到来し、ドイツでもバイエルンでも、社会政治的問題が起き始めたことから、エルモリエフはフランスへ移った。 1929年以降、エルモリエフは、ジュール・ヴェルヌの小説『皇帝の密使』を原作に、6本の映画を製作、1936年には大ヒットを得た。レジオンドヌール勲章を受章した。 1937年、ハリウッド世界を見聞するためふたたびフランスを離れた。ユナイテッド・アーティスツで2作をプロデュース、3作目は、1943年にメキシコでロケーション撮影を敢行した。ミゲル・M・デルガド監督の『皇帝の密使』であった。 1962年2月20日、カリフォルニア州ロサンゼルスで、脳卒中により死去した。満72歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨシフ・エルモリエフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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