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ヨセバ・エロセギ(Joseba Elosegi, 1915年12月6日 – 1990年9月2日)は、スペイン・バスク地方ギプスコア県サン・セバスティアン出身のバスク民族主義者・政治家。1970年にフランシスコ・フランコの目前で焼身自殺を図ったことで知られる。 == 経歴 == === スペイン内戦とフランス亡命 === 1915年、ギプスコア県サン・セバスティアンの家庭に10人兄弟姉妹の5番目として生まれた〔狩野(2003)、pp.202-204〕。両親はバスク人であり、エロセギ家ではバスク語のみが用いられた〔。20歳だった1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、バスク民族主義党(PNV)の民兵として内戦に参戦し、中隊長として前線に配置された〔。10月7日にスペイン共和国議会でバスク自治政府が承認され、ホセ・アントニオ・アギーレがゲルニカの木の下で有名な就任宣誓を行った際には、部下とともにゲルニカに駆け付けた〔。1937年3月以降にエミリオ・モラ将軍を中心とする反乱軍の北方作戦が開始されると、戦力で下回るバスク軍は撤退を余儀なくされ、エロセギが率いる軍は4月25日、ギプスコア県エイバルの前線から西方のビスカヤ県ゲルニカに退いた〔。4月26日にはコンドル軍団を中心とした反乱軍の空軍によってゲルニカ爆撃が行われ、エロセギは爆撃の一部始終を体験した〔。6月19日にはバスク自治政府の首都であるビルバオが陥落。7月にはバスク軍の兵士の多くが反乱軍の捕虜となり、エロセギ自身は「ゲルニカを破壊した」罪〔反乱軍はゲルニカ爆撃を行ったことを認めておらず、ゲルニカの破壊がバスク人自らの手によるものであると主張していた。〕などで死刑判決を受けたが、捕虜交換要員としてカタルーニャ地方に移り、共和国軍兵士として戦い続けた〔狩野(2003)、pp.204-209〕。 23歳だった1939年の内戦終結後にはフランスに亡命し、第二次世界大戦期には、ピレネー山脈で書類、図面、金銭、要人などを案内してスペイン=フランス国境を越える仕事を担当した〔。内戦勃発10周年記念日の1946年7月18日には、サン・セバスティアンにあるサン・セバスティアン大聖堂の頂点にイクリニャ(バスクの旗)を設置し、フランシスコ・フランコ独裁政権に対する抵抗の意思を見せた。その後は再び亡命先のフランスに戻った〔。フランスで結婚はしたが、生まれた息子は17歳の時に亡くなった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨセバ・エロセギ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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