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ヨゼフ・シゲティ ( リダイレクト:ヨーゼフ・シゲティ ) : ウィキペディア日本語版
ヨーゼフ・シゲティ

ヨーゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti, , 1892年9月5日〕 - 1973年2月19日〕)は、ハンガリー出身のヴァイオリン奏者。日本ではヨゼフ・シゲティという表記も多く見られる。ハンガリー語名で姓・名の順に呼ぶとシゲティ・ヨージェフまたはスィゲティ・ヨージェフとなる。
ブダペストにジンゲル・ヨージェフ ( ) 〔生まれたときの姓名としてジンゲル・ヨーシュカ ( ) という記述も散見されるが、ヨーシュカ ( ) は、ヨージェフの単なる愛称形である。〕として生まれる〔ハルトナックによれば「ホルデの『音楽におけるユダヤ人』という本のなかにまちがって引用されたりはしたものの、いわゆる非アーリア人ではなかった」とのことである。(ヨーアヒム・ハルトナック著、松本道介訳『二十世紀の名ヴァイオリニスト』白水社、新装復刊版、1998年、215頁。30頁も参照のこと。)ただし、Wikipedia のハンガリー語版英語版のシゲティに関する記事では、彼がユダヤ系であることが明記されている。〕。父親はカフェのオーケストラの首席奏者であり、叔父もコントラバスを弾くなど、音楽家の家系であった。
少年時代はカルパチア山脈の麓のマロシュ城県(Maros vármegye の県庁所在地のマーラマロシュシゲト(Máramarossziget )市〔現ルーマニア領ムレシュ県シゲトゥ・マルマツィエイ(Sighetu Marmației )〕で過ごし〔ハラルド・エッゲブレヒト著、シュヴェルツァー節子訳『ヴァイオリンの巨匠たち』アルファベータ、2004年、95-96頁。〕、父親の手ほどきを受け、ブダペストの私設音楽院予備校で歌劇場のオーケストラの団員にヴァイオリンを習った〔マーガレット・キャンベル著、岡部宏之訳『ヴァイオリニストたち』東京創元社、1983年、197頁。〕。ほどなくして、ブダペスト音楽院フバイ・イェネーに師事し、1904年にはベルリンヨーゼフ・ヨアヒムを訪問し、ベートーヴェンヴァイオリン協奏曲を演奏して評価されている〔萩谷由喜子によれば「12歳の頃、晩年のヨアヒムに演奏を聴いてもらえるようになったとき、何を弾くか迷った末、勇敢にもこの協奏曲を選んだ。するとヨアヒムはピアノに向かって譜面も見ずに伴奏してくれ、シゲティの演奏が終わると彼のサイン帖に称賛の言葉とともに未来への明るい予言を書き込んでくれた」とのことである。(萩谷由喜子「曲目について」『ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 他 シゲティ』フィリップス、2006年、解説。)〕。1906年にはベルリンのサロンで演奏した後、フランクフルトのアルベルト・シューマン・サーカスに「スラギ」(Szulagi)という芸名で数か月雇われた。1906年にはロンドンのベヒシュタイン・ホール(現在のウィグモア・ホール)でイギリス・デビューを飾り、1908年にハミルトン・ハーティのヴァイオリン協奏曲を初演し、作品を献呈された。1907年にはフェルッチョ・ブゾーニの知己を得て、度々共演するようになった〔「シゲティはブゾーニによって芸人的ヴィルトゥオーゾへの道を避けて、真の音楽家として厳しい道を歩む一貫した姿勢を教えられた」。(中村稔『ヴァイオリニストの系譜』音楽之友社、1988年、116頁。)〕が、1913年に結核を患って一時演奏活動を停止する。
1917年にアンリ・マルトージュネーヴ音楽院の後任教授として活動を再開し、1924年までその任に当たった。1923年にはウジェーヌ・イザイから無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番を献呈されている。1924年にはプラハの「新しい音楽のための国際会議」音楽祭でフリッツ・ライナーセルゲイ・プロコフィエフヴァイオリン協奏曲第1番を演奏し、作曲者をして「シゲティ以上に、この曲をすばらしく弾けるヴァイオリニストは他にいない」〔ハラルド・エッゲブレヒト著、シュヴェルツァー節子訳『ヴァイオリンの巨匠たち』アルファベータ、2004年、100頁。〕と言わしめた〔1953年の来日時には、プロコフィエフの死去の報を受け、急遽プログラムに、このヴァイオリン協奏曲第1番の第2楽章を取り入れて、哀悼の意を表している。(萩谷由喜子「ヨゼフ・シゲティについて」『プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 他 シゲティ』フィリップス、2006年、解説。)〕。
1925年にレオポルド・ストコフスキーの招きで渡米〔この時の興行師に「ミスター・シゲティ、失礼になるかもしれませんが、あなたの《キュルツァー・ソナタ》(クロイツェルという発音にドイツ語の短いという意味のキュルツをもじってかけて)だけを聴いていると、聴衆が居眠りをしてしまいますよ」といわれた逸話がある。(ハラルド・エッゲブレヒト著、シュヴェルツァー節子訳『ヴァイオリンの巨匠たち』アルファベータ、2004年、99頁。)〕。その後1930年代に世界各国を回り、1931年には初来日を果たし、その翌年にも日本に来訪している〔太宰治は、1937年の短篇「ダス・ゲマイネ」 の中で「昨年の晩秋、ヨオゼフ・シゲティというブダペスト生れのヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気であった。孤高狷介のこの四十歳の天才は、憤ってしまって、東京朝日新聞へ一文を寄せ、日本人の耳は驢馬の耳だ、なんて悪罵したものである」というエピソードを伝えている。〕。1938年にはエルネスト・ブロッホからヴァイオリン協奏曲を献呈されている。
1940年にアメリカに移住〔この時、米国議会図書館においてアメリカ亡命中の同胞バルトークを伴奏者に迎えて、さまざまな作曲家によるヴァイオリン・ソナタのリサイタルの演奏・録音を行っている。〕し、1951年に市民権を取得した。同年、フランク・マルタンからヴァイオリン協奏曲を献呈されている。1960年からスイスに居を移し、フランコ・グッリ海野義雄潮田益子前橋汀子 深井硯章 (ヒロフミ) らを教えた。
ルツェルンにて死去。娘はニキタ・マガロフと結婚した〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.75。〕。
== 著作 ==

*ヨーゼフ・シゲティ著、永井美恵子 北村義男訳『弦によせて』音楽之友社、1967年。
*ヨーゼフ・シゲティ著、谷口幸男訳『ベートーヴェンのヴァイオリン作品―演奏家と聴衆のために』音楽之友社、1993年。
*ヨーゼフ・シゲティ著、山口秀雄訳『ヴァイオリン練習ノート―練習と演奏のための解説付200の引用譜』音楽之友社、2004年。
*ヨージェフ・シゲティ著、内田智雄訳『シゲティのヴァイオリン演奏技法 個性的表現の理論と実践』シンフォニア、2005年。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Joseph Szigeti 」があります。




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