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ヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルク(、1398年頃 - 1468年2月3日)は、ドイツ出身の金属加工職人、印刷業者である。活版印刷技術の発明者といわれ、広く知られている。 グーテンベルクの古い記録は、裁判記録以外ほとんどなく、活版印刷技術の真の発明者は誰かという論争が古くから行われてきたが、グーテンベルクとする説が最も有力である〔謎の人グーテンベルク インキュナブラ~西洋印刷術の黎明~ 国立国会図書館〕。1445年までに活版印刷技術を考案し〔『最新世界史図説 タペストリー 初訂版』 帝国書院 2003年4月、280頁。 ISBN 4-8071-5377-3〕〔500年以上にわたる書籍見本市の歴史 ドイツ総領事館 〕〔書物の文化史 <活版印刷時代> 東海大学付属図書館中央図書館 〕、その機器の実用化に成功して、自ら印刷業・印刷物出版業を創設したといわれる〔物を通して見る世界史 〕。金属活字を使った印刷術を発明したことでが始まり、それが一般に中世で最も重要な出来事の1つとされている〔広く重視されていることの概要は People of the Millenium を参照。1999年、A&Eネットワークが選定した「紀元1000年代の人 」ランキングで1位に選ばれている。1997年、Time-Life誌は「紀元1000年代で最も重要な発明」にグーテンベルクの発明を選んだ。1998年、アメリカの著名なジャーナリスト4人がこの1000年間を形作った人々1000人を選び、同様にグーテンベルクを1位としている。カトリック百科事典の Johann Gutenberg の項目では、彼の発明がキリスト教世界に比類ない文化的衝撃を与えたとしている。〕。活版印刷はルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に寄与した〔; ; ; 〕。 1439年頃にヨーロッパで初めて活字による印刷を行った。活字量産方法の発明、油性インクの採用、当時使われていた農耕用スクリュープレスのような木製印刷機の採用など、様々な面で印刷に貢献している。真の画期的発明といえるのはそれらを組み合わせて実用的システムとしたことであり、それによって本の大量生産を可能にし、印刷業者にとっても読者にとっても経済的に成り立つようにした。グーテンベルクの活字生産方法の目新しい点は、古くから活字合金の発明とパンチ法と呼ばれる鋳造技法といわれていた。 それまでヨーロッパでの本の生産は手書きでの「書き写し」か木版印刷であり、活版印刷はヨーロッパでの本生産に一大変革を起こした。活版印刷具は急速にヨーロッパ各地に普及し、さらに世界中に広まっていった。印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられる。 1455年に初めて旧約・新約聖書(ラテン語版)つまり『グーテンベルク聖書』を印刷したことで有名である。この聖書は美麗で技術的にも高品質だと賞賛されている。 == 生い立ち == ドイツの都市マインツの上流階級の商人フリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデンとその2番目の妻で商店主の娘エルゼ・ヴューリヒの間に末っ子として生まれた。フリーレはマインツ大司教配下の金細工師だったとする記述もあるが、織物の貿易商だったとする説が最も有力である。生年は明らかではないが、1398年ごろと見られている。 技術史家のジョン・リーンハルト(John Lienhard)は「グーテンベルクの生い立ちは謎に満ちている。彼の父は教会の造幣所で働いていた。グーテンベルクは金細工の取引を見ながら育った」と記している。歴史家のハインリヒ・ヴァラウ(Heinrich Wallau)もこの説を支持しており「14世紀から15世紀にかけて、彼(の子孫)は大司教の造幣所の親方の地位を世襲していた。そのため彼らが金属加工の知識や技術に長けていたことは確実である。彼らは鋳造用の金属を造幣所に供給し、様々な貨幣の両替を行い、偽造事件の際には審問官として働いた」と記している〔Wallau, Heinrich. ''Johann Gutenberg ''. ''The Catholic Encyclopedia''. Vol. 7. New York: Robert Appleton Company, 1910.〕。 ヴァラウはさらに「彼の姓は父や先祖が住んでいた家 'zu Laden'、'zu Gutenberg' に由来する。ゲンスフライシュの家系を遡れば、13世紀にはマインツの貴族だった」と記している〔。マインツの貴族はしばしば所有する家にちなんで名付けられた。1427年頃、一家の住む家 ''zu Gutenberg'' にちなんだ姓「ツム・グーテンベルク」が初めて記録されている〔。13世紀以降、グーテンベルク一族は冶金業と商業に従事していた。父母の間には長男フリーレ(後に市参事会員)、長女エルゼが生まれ、次男として生まれたのがヨハネスであった(グーテンベルクの人生についてはほとんど知られていなかったが、19世紀にアロイス・キュッペル(Aloys Küppel)博士が初めて本格的な研究を行い、以降、教会や市の記録をもとにしてグーテンベルク一族の研究が進められた。)。 当時のマインツでは市民と貴族の間で争いが繰り返されていた。その煽りでグーテンベルク一家は1411年以降、他の貴族たちと同じように、何度もマインツを離れて母が相続した地所を持っていたへ逃れることを余儀なくされた。ヴァラウは「彼の若い頃について判っていることは、彼が1430年にはマインツにいなかったということだけである。彼の一家と何らかの繋がりがあったと思われるシュトラースブルクに政治的理由から移住していたと推定される」と記している〔。その頃、ヨハネスがに学んだ可能性もあり、1418年の在籍者として Johannes de Altavilla という名前が記録にあり、Altavilla とはラテン語でエルトフィレ・アム・ラインを意味する。 その後15年間のことはよくわかっていない。1419年に父フリーレが死去した際の遺産相続についての記録で言及がある。一家がマインツに戻ることができたのはようやく1430年になってからと推測されている。成人したヨハネスは金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人としてその手腕を高く評価されていたが、母方の祖父が貴族でないという理由で貨幣鋳造業ギルドへの加入が認められなかったという。グーテンベルクは1433年に母エルゼが死去してから、兄姉との関係がうまくいっていなかったようで、それが原因なのか1434年以降シュトラースブルクに移り住んでいる。 1434年3月にグーテンベルクが書いた書簡があり、母方の親戚の住むシュトラースブルクに住んでいることが書かれている。彼はまた金細工師としてシュトラースブルクの民兵組織にも登録されている。1437年には裕福な商人に宝石研磨の技術を教えていた証拠もあるが、どこでそのような技術を身につけたのかは不明である。同じころ、シュトラースブルク出身の女性との婚約破棄に関連した訴訟に名前が記録されている。実際に結婚したかどうかは記録されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハネス・グーテンベルク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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