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ヨハンネス・ユーバーシャール(Johannes Ueberschaar、1885年3月4日- 1965年1月21日、姓の日本表記は「ユーベルシャール」とも)は、ライプツィヒ大学日本文化研究所の初代所長。また日本においては、長らく甲南大学教授としてドイツ語教育に尽した。 ライプツィヒ大学で法学を学び、明治憲法の研究で法学博士の学位取得をすると、1911年(明治44年)、大阪高等医学校のドイツ語及びラテン語の教師として来日した。しかし、1913年(大正3年)、第一次世界大戦の勃発に際し、ドイツ帝国の租借地だった中国・青島の防衛に召集される。青島は日本軍の攻撃により陥落するが、ユーバーシャールは日本語が出来たため、降伏交渉にはドイツ側通訳として列席した。 捕虜となったユーバーシャールは、東京俘虜収容所(浅草・東本願寺)、続いて習志野俘虜収容所に収容された。収容所においても通訳役を引き受け、日独双方の意志疎通と融和に努める一方、捕虜仲間の学習会ではしばしば教壇に立ち、日本文化を講じている。1917年(大正6年)10月31日には収容所内で、「宗教改革400年記念の夕べ」を催し、「1517年から1917年のドイツ人」と題して講演を行っている。 大戦終結後も日本に留まり、1919年(大正8年)から1930年(昭和5年)まで再び大阪医科大学(府立)でドイツ語を教える。その後帰国し、1932年(昭和7年)からライプツィヒ大学日本学教授。また、日本文化研究所を設立して初代所長となったが、ナチスに党籍があったものの、次第にナチスとは対立するようになり、1937年(昭和12年)再度来日。天理外国語学校、甲南高等学校(旧制)を経て、第二次大戦後は甲南大学教授として日本におけるドイツ語教育に尽した。その一方、ドイツへ向けた日本文化の紹介、特に松尾芭蕉の俳句をドイツ語訳することに大きな業績を残している。1965年(昭和40年)、神戸市で没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハンネス・ユーバーシャール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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