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ヨハン・テオドール・ヘリエ・ヴェストリン(Johan Theodor Herje Westrin, 1916年9月17日 - 1944年10月5日) は、第二次世界大戦期のスウェーデンの軍人。冬戦争ではフィンランド軍に、独ソ戦ではナチス・ドイツ武装親衛隊にスウェーデン人義勇兵として所属し、ソビエト赤軍と交戦。1944年秋、ラトビア東部における戦闘で戦死した。最終階級はSS曹長(SS-Oberscharführer)〔Richard Landwehr "Siegrunen"#59(Richard Landwehr, 1995)pp.42-43. "SS-OBERSCHARFÜHRER JOHAN WESTRIN"〕。 なお、ヴェストリンは1987年に至るまで戦死が公式に確認されておらず、第二次世界大戦終結から40年以上もの間「行方不明」として扱われていた。 == 武装親衛隊入隊までの経歴 == 1916年9月17日、ヨハン・ヴェストリンはスウェーデン王国の首都ストックホルムに生まれた〔。父親は農場地主であった〔"Svenska frivilliga i Waffen-SS 1939-45" / 175, Namn: Johan Westrin。〕。 第二次世界大戦勃発前のヴェストリンはスウェーデン中西部のイェムトランド県スヴェイ(Sveg)で森林業実習生として生活する傍ら、スウェーデンのファシズム政党「国家社会主義労働者党」(NSAP、1938年末にSvensk Socialistisk Samlingと改称)の支持者となった〔同上〕。 1936年、ヴェストリンはスウェーデン軍へ入隊した。数年後、ソビエト連邦とフィンランドの間の戦争(冬戦争)の際にはスウェーデン軍から許可を得て、スウェーデン人義勇兵(軍曹)として1939年12月28日から1940年4月15日、その後間を空けて1941年8月から1942年4月まで〔フィンランド軍スウェーデン人義勇兵部隊(Svenska frivilligkåren)に勤務した。 ところが、1942年に(理由は不明であるが)ヴェストリンはフィンランド軍の所属部隊から無許可離隊したため、フィンランド軍に逮捕され、軍法会議で禁固3ヶ月の判決を言い渡された(この判決は間もなくパンと水だけで18日間の拘禁に減刑された)〔。釈放後、フィンランド軍を見限ったヴェストリンはスウェーデン軍へ復帰した。 スウェーデン軍復帰後、ヴェストリンはエステルスンド(Östersund)の歩兵連隊で勤務していた〔Lars Gyllenhaal, Lennart Westberg "Swedes at War: Willing Warriors of a Neutral Nation, 1914-1945"(THE ABERJONA PRESS, 2010)p280〕。しかし、記録上では1942年4月18日から1943年5月13日までスウェーデン軍で勤務していたが、実際には1943年4月14日の時点でヴェストリンはスウェーデンから隣国のノルウェーに向かい、4月18日にノルウェーの首都オスロでナチス・ドイツ武装親衛隊に志願入隊していた(スウェーデン軍は1943年5月13日付でヴェストリンの名を無許可離隊者リストに登録した)〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハン・ヴェストリン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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