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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヨハン・エラスムス・キンダーマン(Johann Erasmus Kindermann 1616年3月26日 - 1655年4月14日)は、ドイツのオルガニスト、作曲家。17世紀前半のニュルンベルク楽派の重要な作曲家である。 == 生涯 == キンダーマンはニュルンベルクに生まれた。音楽の学習を始めたのは幼少期であり、15歳になる頃には既にフラウエン教会での日曜午後の礼拝において演奏することを仕事としていた〔バスを歌うとともにヴァイオリンを弾いていた。〕。彼に主な音楽教育を施したのはヨハン・シュターデンである。町の役人からの許可と資金援助を得たキンダーマンは、1634年から1635年にかけて新しい音楽を学ぶべくイタリアに赴いた。イタリア滞在中の出来事については何もわかっていないが、ハンス・レーオ・ハスラーやヨハン・フィリップ・クリーガーなどの他のニュルンベルク楽派の音楽家同様、ヴェネチアを訪れたものと考えられる。1636年1月、キンダーマンは帰国してフラウエン教会の第2オルガニストに就くよう市議会から指示を受けた。1640年にはシュヴェビッシュ=ハルのオルガニストに就任するが、同年のうちに辞してエジディーン教会(英語版)のオルガニストとなった。この職は聖ゼーバルト教会、聖ローレンツ教会に次いでニュルンベルクで3番目に重要なオルガニスト職であった。 その後没するまでニュルンベルクで過ごしたキンダーマンは、町でも指折りの音楽家、そして最も名高い教育者となっていった。彼の門弟にはアウグスティン・プフレガーがおり、クリーガー兄弟やヨハン・パッヘルベルといったニュルンベルク楽派の最後の世代を育てたハインリヒ・シュヴェンマー、ゲオルク・カスパー・ヴェッカーもキンダーマン門下であった。また、キンダーマンは自作集のみならずジャコモ・カリッシミ、ジローラモ・フレスコバルディ、タルクィニオ・メールラといった作曲家の作品を出版し、ニュルンベルクや南ドイツにおける新たな音楽の普及に貢献した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハン・エラスムス・キンダーマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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