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ヨハン・カスパー・ラヴァーター : ミニ英和和英辞書
ヨハン・カスパー・ラヴァーター[らヴ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love

ヨハン・カスパー・ラヴァーター : ウィキペディア日本語版
ヨハン・カスパー・ラヴァーター[らヴ]

ヨハン・カスパー・ラヴァーター(Johann Caspar Lavater、1741年11月15日チューリヒ - 1801年1月2日同)は、スイスの改革派の牧師であり、啓蒙期の思想家、著作家である。近代(顔貌と性格・気質との関係を考察する学)の祖として知られている。
== 生涯 ==
1741年、チューリヒの医者の息子として生まれる。まずドイツ語学校に、ついでラテン語学校、1754年よりコレギウム・フマニタシスに通い、1756年から1762年まではコレギウム・カロリヌムでヨハン・ヤコブ・ボドマーヨハン・ヤコブ・ブライティンガー(ドイツ語版)の教えを受ける。1762年牧師に任職される。同年、学友でのちに著名な画家となるヨハン・ハインリヒ・フュースリーとともに前任のラントフォークト(帝国直轄地域の管理職)フェリクス・グレーベルの不正を書面で告発した。
1763年、フュースリーとともに北ドイツへの修養旅行を企て、スウェーデン-ポメラニアのバースにて啓蒙期の改革派の神学者のもとで聖職のための修行を行う。またその旅行途中に、ベルリンで同時代の様々な著名人(、モーゼス・メンデルスゾーンフリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックなど)と親交を結んだ。8ヶ月間を過ごしたバースではまた批評的著作によって文筆業の端緒を開いた。
1764年にチューリヒに戻ったのち、様々な団体を設立し、また最初の重要な著作群を出版した。1769年にヴァイゼンハウス教会の執事、1775年に同牧師、1778年に聖ペーター教会の執事、1786年に同牧師となった。
1769年、ラヴァーターはシャルル・ボネの著作をドイツ語に翻訳し、これに対する反論ないしキリスト教への改宗をさせることを意図してメンデルスゾーンにこれを捧げた〔Johann Caspar Lavater: Johann Caspar Lavaters Zueignungsschrift der Bonnetischen Philosophischen Untersuchung der Beweise für das Christenthum an Herrn Moses Mendelssohn in Berlin. Zürich 1769.〕
。これによってメンデルスゾーンとラヴァーターの間で書簡による論争が始まり、この成り行きはヨーロッパ中の学者から注目を受けた〔Moses Mendelssohn: Schreiben an den Herrn Diaconus Lavater zu Zurüch. Berlin 1769.〕〔Johann Caspar Lavater: Antwort an den Herrn Moses Mendelssohn zu Berlin. Berlin und Stettin 1770.〕。この論争中、ラヴァーターは法律家・神学者のから支持を受けている〔ders.: Zweytes Schreiben an Herrn Moses Mendelssohn insonderheit über den ehemahligen Mendelssohnischen Deismus, über das Mendelssohnische Kennzeichen einer Offenbarung, und kürzlich über die Glaubwürdigkeit der Evangelischen Geschichte. Andreä, Frankfurt am Mayn 1770.〕〔Karl Bittel: Der berühmte Hr. Doct. Mesmer. 1734-1815. Auf seinen Spuren am Bodensee im Thurgau und in der Markgrafschaft Baden mit einigen neuen Beiträgen zur Mesmer-Forschung. Aug. Feyel, Buchdruckerei und Verlagsbuchhandlung, Überlingen 1939. S. 12.〕。
1774年ラーン川旅行にてゲーテヨハン・ベルンハルト・バゼドウ、らと知り合う。このときの旅行中にゲーテ、バゼドウ、ラヴァーターの3人でとった食事のことを詠ったゲーテの詩(「右に予言者、左に予言者、俗世の子どもはまん中に」〔池内紀 『ゲーテさんこんばんは』 集英社、2001年、50-51頁〕(''Prophete rechts, Prophete links, das Weltkind in der Mitten''))は、のちにゲーテの自伝『詩と真実』でも引用されよく知られた詩句となった。またこの旅行に同行したルートヴィヒスブルク出身の画家・銅版画家のは、この旅行中に描いた多数の肖像画をラヴァーターの『観相学断片』のために銅版画に仕上げた。
1786年、ラヴァーターはブレーメンの聖アンスガリウス教会の説教者に任命されたのち、同地への旅行を行った。ラヴァーターはその地位を拒否してチューリヒの牧師の地位に留まったにも関わらず、旅行中およびブレーメンでは熱烈な歓迎を受けた。1793年にはデンマークの外務大臣の招聘でコペンハーゲンへの旅行を行った。
ラヴァーターの晩年の数年間の生活は、その大部分が政治的な出来事によって決定付けられることとなった。ラヴァーターはフランス革命の影響に対して批判的立場を取り、スイスへのフランス軍進駐に対して強い批判を行ったため、ヘルヴェティア共和国政府からロシア、オーストリアとの密通の疑いをかけられたのである。1799年5月16日、ラヴァーターは逮捕されバーゼルへ拘引された。6月10日に解放されチューリヒに戻ることができたが、同年9月26日アンドレ・マッセナの侵略の際に、ラヴァーターは路上の傷ついた兵士を助け、その際に敵兵の銃弾に撃たれた。15ヶ月後、ラヴァーターはこのときの傷がもとで死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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