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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヨハン・ゲオルク・ハーマン(Johann Georg Hamann, 1730年8月27日 - 1788年6月21日)は、ドイツの哲学者・文学者。 ケーニヒスベルク出身(ドイツ本国からすればかなり北方である)であることと、その独特で難解な文体から、「北方の博士」(あるいは「北方の魔術師」, ''Magus in Norden'')の異名を持つ。合理主義・啓蒙思想に反対し、人間の根元能力である感性・信仰の哲学を主張し、同時代で同郷の知友、哲学者カントを批判、また影響をあたえた重要な人物である。同じ東プロイセン出身である文学者・ヘルダーを見出したことでも有名である。 ==生涯== ===生い立ち === 1730年に、外科医の長男としてケーニヒスベルクに生まれる。当地出身の哲学者・カントより6歳年下である。両親は非常に教育熱心でハーマンも幼少期からフランス語、ギリシア語、絵画、音楽など様々な教育を受けていた。しかし、教師の力量不足で語学に関しては不適切な教育を受けていたため、普段の会話から軽快で分かり易さを旨とした文法をうまく使うことはできなかったという。このことがいい意味でも悪い意味でも後のハーマンの難解な文章を生み出す機縁であったと言われている。1746年にケーニヒスベルクにある()に神学生として入学。哲学から物理学まで受け持っていたクヌッツェン教授の弟子になる。クヌッツェンは、カントにニュートン物理学を教えた人物でもあり、この縁でカントとハーマンが知友になったといわれている。当時ケーニヒスベルクは、ピエティスムス(敬虔主義)の牙城であり、クヌッツェンは、ピエティスムスと当時旺盛していた啓蒙主義との調和を目指していた。(このことはカントにも言えることだが)こうした思潮はハーマンにも少なからぬ影響を与えた。ハーマンの思想の核心にもなる「神へのへりくだり」(Herunterlassung Gottes)という概念は直接にはクヌッツェンの思想に由来する(カントもこの表現は使わないが、後に宗教論にあたる「単なる理性の限界内における宗教」においてこれと類似する考え方を示している) 。 しかし、クヌッツェン以上にハーマンに影響を与えたのは、当大学でイギリス哲学を講じていたカール・ハインリヒ・ラポルトであろう。彼は、啓蒙思想に傾倒し、イギリス哲学やフランス哲学をハーマンら学生に教えていた。このことは、ハーマンを神学から遠ざけて、詩学や文献学、芸術、美学などに興味を持たせることになった。特にハーマンはフランス思想などに憧れていたという。また、ハーマンの人生を決定付けることになる友人ヨハン・クリストフ・ベーレンスとヨハン・ゴットヘルフ・リントナーと共同で雑誌「ダフネ」(Daphne)を発刊。道徳、宗教、社会などを論じ、中々の評判であった。このように、学生時代のハーマンには反啓蒙の精神はまだ現れていなかったといえる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハン・ゲオルク・ハーマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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