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ヨハン・シュトラウス3世(Johann Strauss III, 1866年2月16日 - 1939年1月9日)は、オーストリアのウィーンを中心に活動した音楽家である。全名は「ヨハン・マリア・エドゥアルト・シュトラウス」。オーストリアでは、「1世」「2世」などとつけるのは君主の場合に限られるため〔河野(2009) p.185〕、「ヨハン・シュトラウス3世」ではなく「ヨハン・シュトラウス(孫)」と呼ばれる。 エドゥアルト・シュトラウスの長男で、ヨハン・シュトラウス2世とヨーゼフ・シュトラウスの甥、ヨハン・シュトラウス1世の孫、エドゥアルト・シュトラウス2世の伯父にあたる。もっぱらセミ・クラシックの指揮者として知られるが〔 『ブリタニカ国際大百科事典9』(1991) p.449〕、当初は主に作曲家として活動した。今のところシュトラウス・ファミリー最後の作曲家である。 なお、毎年元日に開かれるウィーンフィル・ニューイヤーコンサートは、シュトラウス家の楽曲を主として演奏することで知られるが、これまでにヨハン3世の楽曲が演奏されたことはない。 == 生涯 == === 前半生 === 1866年2月16日、エドゥアルト・シュトラウスとその妻マリア・クレンカールトの長男としてウィーンで誕生する〔。1870年、伯父ヨーゼフ・シュトラウスが死去したが、この時まだヨハン3世は4歳であり、伯父ヨーゼフについての記憶はあまりないという。1876年から1884年までの8年間、伯父ヨハン2世やヨーゼフと同じくに通った。若い頃には母マリアや弟ヨーゼフ・エドゥアルトとともに父の財産を浪費し、1897年には父を財政破綻に追い込んでしまっている。 父エドゥアルトからは音楽家になることを禁止されていたが、法律とともにピアノ・ヴァイオリン・音楽理論などを勉強した。オーストリア帝国文部省の官吏だったが、やがて音楽家に転身することを決意した〔加藤(2003) p.69〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハン・シュトラウス3世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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