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ヨハン・ハインリヒ
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ヨハン・ハインリヒ ( リダイレクト:ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク ) : ウィキペディア日本語版 | ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク(Johann Heinrich von Luxemburg, 1322年2月12日 - 1375年11月12日)は、ルクセンブルク家のボヘミア王ヨハンと最初の妃エリシュカの次男。神聖ローマ皇帝カール4世の弟、ルクセンブルク公兼ブラバント公ヴェンツェル1世の兄。チロル伯(在位:1335年 - 1341年)、モラヴィア辺境伯(1349年 - 1375年)。チェコ語名はヤン・インジフ(Jan Jindřich) 父ヨハンの即位によりボヘミア王位を追われたケルンテン公ハインリヒ6世が1335年に死去し、ゲルツ家の男系男子が絶えると、遺領を巡ってルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ハプスブルク家の間で争いが起こった。ヨハン・ハインリヒは、ハインリヒ6世の娘で相続人である「マウルタッシュ」(醜女)ことマルガレーテと1330年に結婚しており、遺領のうちチロル伯領を得た。しかし、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の画策により、父王ヨハンとルートヴィヒの間で戦争になりかけたが、1336年10月9日に和約が成立し、ルクセンブルク家はケルンテン公国の相続を放棄することと引き換えに、ヨハン・ハインリヒがチロルを相続することと決まった。しかしルートヴィヒは諦めず、マルガレーテとチロル貴族が結んで1341年、ヨハンはチロルを追放された。その後マルガレーテはルートヴィヒ4世の長男・ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世と再婚、マインハルトを生んだが、ルクセンブルク家と帝国諸侯が反発、ルートヴィヒ4世が廃位されてヨハン・ハインリヒの兄・カール4世が対立王に擁立されるきっかけになる。 ボヘミアへ戻った後、ヨハン・ハインリヒは兄からモラヴィア辺境伯の位を授けられた。また、1349年にオパヴァ=ラチブシュ公ミクラーシュ2世の娘マルガレーテと再婚し、6子をもうけた。長男ヨープストは、カール4世の次男ジギスムントの対立王となった。次女エリーザベトはマイセン辺境伯ヴィルヘルム1世と結婚した。1363年のマルガレーテの死後、翌1364年にオーストリア公アルブレヒト2世の娘マルガレーテと再婚したが、子は無かった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 John Henry, Margrave of Moravia 」があります。
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