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ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー : ミニ英和和英辞書
ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー : ウィキペディア日本語版
ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー[ちょうおん]

ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァーJohann Heinrich Schmelzer, 1623年 - 1680年)は、バロック期オーストリア作曲家ヴァイオリニストウィーンで活躍し、プラハで死んだ。シュメルツァーはオーストリア人でありながら、当時イタリア人たちに支配されていた分野(ヴァイオリンの演奏と作曲)で、高い評判を得た。実際、1660年、ある旅行者は彼について「全ヨーロッパで最も傑出したヴァイオリニストではなかろうか」と言及したほどである。1664年の彼の作品「Sonatae unarum fidium」は、ドイツ語圏の作曲家が初めて出版した、ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集である。そこには、中期バロックのヴァイオリン・ソナタ特有の、華麗なヴィルトゥオーソ性、個々の構成、広い固執低音の変奏が含まれていた。また彼が活躍したウィーンのハプスブルク宮廷では、宮廷楽長はイタリア人になることが多く、実際彼の前任の楽長もジョヴァンニ・フェリーチェ・サンチェスというイタリア人だったが、その死後、オーストリア人としては珍しいことに宮廷楽長に昇進した(1679年)。しかしそれからわずか数か月後、ペストにより亡くなった。
シュメルツァーは当時のオーストリアの器楽曲作曲家の先頭を進む第一人者で、やはりオーストリアのヴァイオリニスト兼作曲家のハインリヒ・ビーバーに多大な影響を与えた。ビーバーはシュメルツァーの弟子の一人ではなかったかと言われている。
息子のアンドレアス・アントン・シュメルツァーも父の後を継いで、作曲家、ヴァイオリニストになった。
==主な作品==

*フェルディナンド3世の死に寄せる哀歌(Lamento sopra la morte di Ferdinado III)(1657年)
*12の選ばれたソナタ(Duodena selactarum sonatarum)(1659年)
*聖と俗との音楽的協和(宗教的・世俗的合奏曲集)(Sacro-profanus concentus musicus)(1662年)
*一つの弦楽器のためのソナタ集(Sonata unarum fidium)(1664年)
*フェンシング指南(Die musikalische Fechtschul)(1668年)
*放屁の日のためのソナタ(Sonata a 5 per camera al giorno delle correggie)(1676年)
*150の組曲、声楽曲、および教会音楽

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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