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ヨハン・マルティン・シュライヤー(独:Johann Martin Schleyer、1831年7月18日 - 1912年8月16日)は、ドイツのカトリック司祭であり、人工言語ヴォラピュクの発明者。公式的な名前は、マルティン・シュライヤーであるが、名付け親に敬意を表して、非公式に自らヨハン・マルティン・シュライヤーとした。 1856年にカトリックの司祭になり、複数の小教区司祭として働いた。1867年から1875年まで、彼はメスキルヒや、クルムバッハで司祭を務めた。文化闘争(ビスマルクが行ったカトリック教徒抑圧政策)のため、祭司として行った社会主義に関する発言が原因で、シュライヤーは逮捕され4ヶ月間、投獄された。 その後、1875年から1885年までは、コンスタンツ近郊のリッツェルシュテッテン(ボーデン湖の近く)のカトリックの小教区(聖ペテロ・パウロ小教区)で司祭を務めた。彼の懐旧談によると、このリッツェルシュテッテン時代が、彼にとって最も幸せな期間だったという。 この時代には、カトリックの雑誌Sionsharfe(主に宗教詩を扱う)の編集者をしていた。1879年5月に彼は、ヴォラピュクに関する記事を掲載した。翌1880年には書籍として出版。すると、ヴォラピュクは瞬く間に欧州全体にブームを呼び起こした。シュライヤー自身は1885年、病気が原因で司祭職を辞した後、ヴォラピュク運動に関与することとなった。 ローマ教皇のレオ13世は1894年、シュライヤーを高位聖職者にした。シュライヤーは1912年、コンスタンツで死去する。 彼の死後2001年夏から、リッツェルシュテッテンでは、シュライヤーを列福させるためのキャンペーンが始まった。この地域にはシュライヤーを記念した学校や道路などがある。 1977年に、極左テロ組織に誘拐され、殺害されたドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーは、ヨハン·マルティン・シュライヤーの兄弟のひ孫である。 ==関連項目== *ヴォラピュク 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハン・マルティン・シュライヤー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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