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ヨハン・ミヒャエル・フォーグル : ミニ英和和英辞書
ヨハン・ミヒャエル・フォーグル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨハン・ミヒャエル・フォーグル : ウィキペディア日本語版
ヨハン・ミヒャエル・フォーグル[ちょうおん]

ヨハン・ミヒャエル・フォーグル, 1768年8月10日 - 1840年11月19日)はオーストリア帝国歌手作曲家フランツ・シューベルトの有力な支持者かつ支援者の一人であり、良かれと思って楽譜を一部改竄したことがあったとはいえ、シューベルトの歌曲を世に広く知らしめることに貢献した歌手の一人である。
声域はバリトンとされるが、実際にはテノールのパートも歌える幅広い声域を持っていたとも伝えられる〔#フィッシャー=ディースカウ p.158〕。フォーグルの生きた時代、特にオペラ歌手として舞台に立っていたころは、バリトンがテノールやバスとくらべて低く扱われていた時代であり、バリトンが主役に据えられたオペラは、フォーグルが活躍した時代になって初めて作曲された〔#フィッシャー=ディースカウ pp.143-144〕'', 1768年8月10日 - 1840年11月19日)はオーストリア帝国歌手作曲家フランツ・シューベルトの有力な支持者かつ支援者の一人であり、良かれと思って楽譜を一部改竄したことがあったとはいえ、シューベルトの歌曲を世に広く知らしめることに貢献した歌手の一人である。
声域はバリトンとされるが、実際にはテノールのパートも歌える幅広い声域を持っていたとも伝えられる〔#フィッシャー=ディースカウ p.158〕。フォーグルの生きた時代、特にオペラ歌手として舞台に立っていたころは、バリトンがテノールやバスとくらべて低く扱われていた時代であり、バリトンが主役に据えられたオペラは、フォーグルが活躍した時代になって初めて作曲された〔#フィッシャー=ディースカウ pp.143-144〕
==生涯==
ヨハン・ミヒャエル・フォーグルは1768年8月10日、オーバーエスターライヒ地方シュタイアーに技術者の子として生まれる〔#フィッシャー=ディースカウ p.143〕。成長してのギムナジウムに進み、言語と哲学、法律〔を学ぶ。クレムスミュンスター時代に、のちにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの弟子となるフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーと親しくなり、音楽の勉強も行うようになった。1786年にウィーンに移ってさらなる研さんに励み、1794年にジュスマイヤーの推薦によりウィーン宮廷歌劇場にデビューして〔、その歌唱力と演技力で広く支持を集めることとなった。
1813年のある日、フォーグルはクリストフ・ヴィリバルト・グルックのオペラ『』の公演でオレステース役で出演していたが、その公演を当時神学校を出たばかりのシューベルトが聴いていた。シューベルトはかねてからフォーグルの出演する舞台を熱心に鑑賞しており、『トーリードのイフィジェニー』の公演後、フォーグルに敬意を示したうえで自分の友人となることを願っていた〔#フィッシャー=ディースカウ p.37〕。翌1814年には、二度目の改訂を終えたルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の第三初演で典獄ピサロを演じた〔#フィッシャー=ディースカウ p.144〕。
フォーグルとシューベルトは1817年に初めて対面する。このころのシューベルトは自分の将来について父フランツ・テオドール・シューベルトと不和になっており、また、この年の創作量は少なめであった〔#フィッシャー=ディースカウ p.142〕。フォーグルとシューベルトの顔合わせは、そんなシューベルトを見かねた友人が、「高名な歌手にシューベルトの歌曲を歌ってもらって広めてもらおう」と発案したものであり、友人たちは使えるコネクションを駆使して、最初のうちは「音楽の天才」に嫌悪感を示したフォーグルの気を引くことに成功し、ついに引き合わせの承諾を得た〔#フィッシャー=ディースカウ p.142, pp.145-146〕。友人の一人の回想によれば、フォーグルと初めて対面したシューベルトはやや緊張してたが、それでもフォーグルの伴奏をこなしていった〔#フィッシャー=ディースカウ p.146〕。初対面ののちフォーグルはシューベルトに「いいものを持っているが、もっと積極的に表に出るべきだ」という意味の忠告を与え〔#フィッシャー=ディースカウ p.148〕、再会の約束をしないまま去って行ったが〔、数週間後に再びシューベルトと友人の前に姿を見せ、『魔王』や『さすらい人』などを披露してみせた〔#フィッシャー=ディースカウ p.152〕。間もなくフォーグルとシューベルトは終生離れぬ友人となり、またフォーグルは自分のこれまで経験したことをシューベルトに伝授したほか、経済的に安定しなかったシューベルトのために様々な援助を惜しまなかった〔#フィッシャー=ディースカウ p.152,157〕。また、自身の斡旋によりケルントナートーア劇場からオペラ作曲の依頼を引き出し、これは1幕物オペラ『双子の兄弟』の作曲と上演として結実する〔#井形 p.110〕。『双子の兄弟』は1820年6月14日にフォーグルも出演して初演されたが成功とは言い難く〔#井形 pp.119-120〕、おりからのジョアキーノ・ロッシーニのウィーン来訪に伴うイタリア・オペラ旋風のあおりを喰らって、フォーグルはほかのドイツ系歌手同様に冷や飯を食わされる結果となってしまった〔#井形 p.22, pp.110-111〕。
フォーグルとシューベルトの直接的な友情は1828年11月19日にシューベルトが亡くなったことで途切れたが、その直前、フォーグルは『冬の旅』を創唱している〔#フィッシャー=ディースカウ p.406,417〕。フォーグルはシューベルトの早すぎる死のあとも、1840年11月19日にウィーンで亡くなる〔Michael Lorenz: ''Studien zum Schubertkreis'', Phil. Diss. Vienna, 2001〕間際までシューベルトの歌曲の伝播に生涯を捧げた。死の数日前に宮中顧問官の邸宅で『冬の旅』を歌ったのが、フォーグル最後の歌唱であった〔#フィッシャー=ディースカウ p.450〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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