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ヨハン・リューネベリ : ミニ英和和英辞書
ヨハン・リューネベリ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨハン・リューネベリ ( リダイレクト:ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリ ) : ウィキペディア日本語版
ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリ[ちょうおん]

ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリフィンランド語:Johan Ludvig Runeberg1804年2月5日 - 1877年5月6日)は、スウェーデン王国(現:フィンランドヤコブスタード出身で、スウェーデン系フィンランド人の。
代表作は1848年に著された長編詩『』で、冒頭の「我が祖国 母なる大地よ(''Vårt land, vårt land, vårt fosterland'')」はフィンランドの国歌である「我等の地」の歌い出しに用いられていると同時に、スウェーデン語で「我等の地」を作詞したことで名高い。なお、ルーネベリがスウェーデン語で書いた「我等の地」をフィンランド語に訳した人物は同国出身の詩人、翻訳家のであった。
また、1916年ノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの詩人ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタムはルーネベリを「スウェーデン語詩芸術のダ・ヴィンチ」と賞賛した〔。〕。
== 生涯 ==
1804年2月5日、スウェーデン王国(現:フィンランド)のヤコブスタードにて、貧しい船長であったウルリク(''Lorens Ulrik Runeberg'')とアンナ(''Anna Maria Malm'')の元に生まれた。
初期はヴァーサオウルで学び、1823年は(現:ヘルシンキ大学)に入学し、古典語を学んだ。なお、トゥルク王立アカデミーの同期には同国出身の哲学者政治家ユーハン・ヴィルヘルム・スネルマン作家エリアス・リョンロートらがおり、また幼くして首都ヘルシンキへ出てきた歴史家ザクリス・トペリウスらと親しくなった。
1827年学位を修得し、その後はやで家庭教師として働いた。
1830年処女作である詩集『詩(''Runot'')』を著す。
1831年には同国出身で作家のと結婚し、のちに8人の子供を子宝に恵まれた〔実際は10人の子供が居たが、10人の内2人は幼少の頃に亡くなった。〕。
1937年にはポルヴォーやヘルシンキ大学ラテン語修辞学助教授を務め、ポルヴォーにあるギムナジウムにて教師としても務めた。
1848年から1860年にかけて、ルーネベリの代表作で、ロシア・スウェーデン戦争フィンランド戦争)を描いた愛国詩『ストール旗手物語』を著す。『ストール旗手物語』の冒頭である「我が祖国 母なる大地よ(''Vårt land, vårt land, vårt fosterland'')」は、後にカヤンデルによりフィンランド語に訳され、フィンランドの国歌となった。
1877年5月6日、ポルヴォーで没した。
1948年に、フィンランドでルーネベリの記念切手が作られた。
2004年、ルーネベリの生誕200年を記念して記念硬貨が製造された(:en:Euro gold and silver commemorative coins (Finland))。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリ」の詳細全文を読む




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