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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヤーコブ・ヨルダーンス (、1593年5月19日 - 1678年10月18日)は、フランドルのバロック期の画家。 ピーテル・パウル・ルーベンス、アンソニー・ヴァン・ダイク同様、アントウェルペン派を代表する画家である。同時代の他の画家たちとは違ってイタリア絵画を学ぶため外国へ行くことはなく、画家としてのキャリアを通じてイタリア人画家たちの人間性や優雅さへの追求には無関心だった〔d'Hulst, pp. 23〕。ヨルダーンスは低地諸国への短期旅行をした以外は、人生の大半をアントウェルペンで過ごした〔。 ヨルダーンスは画家アダム・ファン・ノールトに8年間師事し、後に芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となった。画家として揺るぎない地位を築くと、タペストリのデザインも行っている〔d'Hulst, pp. 24 - 25.〕。ルーベンスと同様に、祭壇画、神話画、寓話画を描き、1640年のルーベンスの死後、アントウェルペン最重要の画家となった彼のもとへ肖像画や大作の依頼が相次いだ〔d'Hulst, pp. 26 - 27.〕。しかしながら、今日彼が最もよく知られるのは、同時代の芸術家ヤン・ブリューゲル (父)と同様の手法でことわざや格言をもとにして描いた『酒を飲む王様』、『大人が歌えば子供が笛吹く』といった風俗的主題の作品によってである〔Jacob Jordaens (I) in the Netherlands Institute for Art History〕。ヨルダーンスの作品にはルーベンス、ブリューゲル一族以外にヤコポ・バッサーノ (:en:Jacopo Bassano)、パオロ・ヴェロネーゼ、カラヴァッジョら北イタリアの画家の影響が見られる〔。 == 生涯 == ヤーコブ・ヨルダーンスは1593年5月19日に、11人兄弟の長男としてアントウェルペンに生まれた。父親は裕福な麻織物商人で同名のヤーコブ・ヨルダーンスで、母親はバルバラ・ファン・ウォルシャテンである〔d'Hulst (2001)〕。ヨルダーンスが幼少期にどのような教育を受けたのかははっきりしておらず、両親の社会的地位にふさわしい十分な教育を受けることができたのではないかと考えられているに過ぎない。ただしこのことはヨルダーンスの美しい筆跡、フランス語能力、そしてギリシア・ローマ神話に対する知識からある程度裏付けることができる。ヨルダーンスがキリスト教に精通していたことは自身が描いた多くの宗教画から明らかであり、後にカトリックからプロテスタントへと改宗したことから聖書への造詣も深かったと考えられる〔d'Hulst p. 23〕。ルーベンスと同じくアントウェルペンの画家アダム・ファン・ノールトのもとで修行し、ヨルダーンスにとってファン・ノールトが最初で最後の師となった。修行時代のヨルダーンスはファン・ノールトの家に下宿しており、その家族とも非常に親密な関係を築いている〔d'Hulst (1993), p.23〕。8年間をファン・ノールトの徒弟として過ごし、その後芸術家ギルド聖ルカ組合には「水彩画家」として登録された〔。17世紀当時には水彩画材はタペストリーの下準備や油彩画の下絵など補助的な役割に使用されることが多かったもので〔Nelson, p.4〕、初期のヨルダーンスの水彩画は一切現存していない。ヨルダーンスは1616年のギルド加入と同時に師であるファン・ノールトの三人姉妹の長姉アンナ・カタリナ・ファン・ノールトと結婚し、1618年には幼少期を過ごしたアントウェルペンのホフストラートに家を購入している。その後1639年には、20年前にルーベンスがしたのと同様に隣家も購入し、居住空間と工房とを拡張し、1678年に死去するまでこの家に住み続けた〔d'Hulst (1993), pp.25 - 26〕。 ヨルダーンスは当時の他の画家とは違って、古典古代芸術やルネサンス芸術を学ぶためにイタリアへ旅したことはなかった。ただし、その代わりに北ヨーロッパで入手可能なイタリア人芸術家たちの版画や作品の研究に没頭した。ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、カラヴァッジョ、バッサーノらの版画、複製画あるいはカラヴァッジョの『ロザリオの聖母』のように本物の作品を研究していたことが分かっている。しかしながらヨルダーンスの作品は伝統的なフランドル絵画であり、特にピーテル・ブリューゲル(父)が描いた風俗画のように、ありふれた市井の人々の喜びに満ちたフランドルの生活風景を素朴に描きだしている〔Nelson 〕。当初ヨルダーンスに絵画制作を依頼したのはフランドルの富裕層や聖職者だったが、画家としての名声が高くなるとヨーロッパ各地の宮廷や行政府からの依頼が舞い込むようになった。油彩画の大作をこなすかたわらでタペストリのデザインも多く手がけており、水彩画家として初期に修行した成果がそのキャリアに反映されている〔。 ヨルダーンスは弟子の多さでも特筆される画家である。ギルドの聖ルカ組合には、1621年から1667年にかけて15名の公式な弟子を持っていたという記録がある。公的機関の文書にもその他に6名の弟子がいたと記載されていることから、このような公式記録として残っている人数よりもさらに多くの弟子を持っていたのではないかと考えられている。弟子の中にはヨルダーンスの従兄弟や息子の名前も載っている。ルーベンスなど当時のほかの芸術家の工房と同様に、ヨルダーンスの工房でも助手や弟子たちが絵画制作に大きな役割を果たしていた。ヨルダーンスの弟子たちの中で後に有名な画家になった者は多くはないが〔Rooses, p.245〕、当時ヨルダーンスの工房は高い評価を受けており、ヨーロッパ各地の若い芸術家たちからは魅力ある働き場所だと見なされていた〔d'Hulst (1993), .〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤーコブ・ヨルダーンス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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