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ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ : ミニ英和和英辞書
ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ : ウィキペディア日本語版
ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ[ちょうおん]

ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(, 1872年5月24日 - 1942年8月25日)は、オーストリア=ハンガリー帝国皇族軍人
== 生涯 ==
トスカーナ大公国最後の大公フェルディナンド4世オーストリアに亡命後の1872年に、パルマ公女アリツィアカルロ3世の次女)との間に次男として生まれる。最後のオーストリア皇后ツィタは母方の従妹に当たる。ザルツブルクで生まれ育ち、テレジア士官学校を出てからは軍人の道を進んだ。
1908年に父が亡くなると、皇族の地位を放棄していた兄のに代わってトスカーナ大公家の家長となった。
第一次世界大戦が勃発すると、ガリツィア方面で第14軍団を指揮した。当初はロシア軍に対し優位に戦いを進めたが、南方の第3軍が敗走するとオーストリア=ハンガリー軍も敗退が相次ぎ、ガリツィア地方を放棄して後退を余儀なくされる。間もなくヨーゼフ・フェルディナントは第4軍の指揮を任命された。翌1915年、反撃に転じた独墺軍はロシア軍を大幅に後退させ、第4軍はルーツク方面の前線まで出る。翌年には上級大将に昇進した。ここまでは戦線も優位に安定しており順調だったが、ロシア軍は攻勢を開始し(ブルシーロフ攻勢)、第4軍は壊滅的被害を受ける。これによりヨーゼフ・フェルディナントは第4軍の指揮官を解任された。その後、新皇帝カール1世によって後方支援の別の役職に割り当てられ、そのまま敗戦を迎えた。
敗戦後、旧皇族はオーストリアへの入国を禁止されるが、ヨーゼフ・フェルディナントは家格を放棄して皇籍を離れることで、ウィーンにとどまり余生を過ごした。しかし時代の流れはウィーンを巻き込み、1938年ナチス・ドイツはオーストリアを併合した(アンシュルス)。フェルディナントはナチスの機関によって抑留され、ダッハウ強制収容所に監禁された。しかし間もなくヘルマン・ゲーリングの取り成しで釈放され、ウィーンに戻り1942年8月に70歳で死去した。
弟のペーター・フェルディナントがハプスブルク=トスカーナ家家長を継いだ。






抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ」の詳細全文を読む




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