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ヨーゼフ・リンケ : ミニ英和和英辞書
ヨーゼフ・リンケ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨーゼフ・リンケ : ウィキペディア日本語版
ヨーゼフ・リンケ[ちょうおん]

ヨーゼフ・リンケJosef Linke 1783年6月8日 - 1837年3月26日Joseph Linke ''Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich'', Vol. 15, 1866, p215, accessed 17 April 2014〕)は、オーストリアチェリスト作曲家ウィーンで活躍し、幾度となくベートーヴェン室内楽曲の初演に参加した。
== 生涯 ==
リンケはシュレージエンのトラーヒェンベルク(現)に生まれた。ブレスラウ(ヴロツワフ)近郊に移り住み、ウェーバー指揮者を務めていたブレスラウ歌劇場の首席チェリストであったローゼにチェロを学び、自らも歌劇場管弦楽団で演奏した〔Cellists of the Viennese School and Other German Cellists of the 19th century www.celloheaven.com, accessed 14 April 2014〕〔Beethoven Encyclopedia, by Paul Nettl. Philosophical Library, New York, 1956〕。
ウィーンに移ったリンケは、アンドレイ・ラズモフスキー伯爵がヴァイオリニストイグナーツ・シュパンツィヒに依頼して結成された弦楽四重奏団へ、1808年にチェリストとして加わった。このシュパンツィヒ四重奏団は伯爵の邸宅で演奏会を催していた〔The early performers of the quartets of Beethoven Elias String Quartet: the Beethoven Project, accessed 10 April 2014〕〔Beethoven: A Documentary Study, by H. C. Robbins Landon, p112. Thames & Hudson, 1970〕。1808年12月にはシュパンツィヒ、リンケ、そして作曲者本人によってベートーヴェンのピアノ三重奏曲作品70の2曲(第5番第6番)が初演され、さらに1814年には同じメンバーで第7番(大公) 作品97の初演も行われた。また1815年には、ベートーヴェンはリンケのために作品102の2つのチェロソナタ(第4番第5番)を作曲している〔〔Piano Trio in B-flat major, Op.97 imslp.org, accessed 17 April 2014〕。
リンケは1815年の大晦日に伯爵邸が火事で焼失し、解散されるまでシュパンツィヒ四重奏団に留まった。シュパンツィヒは数年間ウィーンを離れ、リンケはハンガリー貴族のと懇意となり、一家とともにクロアチアへと向かった〔〔〔。
1818年にウィーンへと戻ったリンケは、アン・デア・ウィーン劇場管弦楽団のソリストとなった。1819年、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ベームが創設した四重奏団に加わる。他にこの楽団に加わったカール・ホルツ、フランツ・ヴァイスのいずれも、かつてシュパンツィヒ四重奏団で演奏した奏者であった〔〔。
シュパンツィヒがウィーンへ戻ったのは1823年のことであり、リンケは彼によって再結成された四重奏団にホルツ、ヴァイスの両名とともに加わった。ベートーヴェンは1810年第11番 作品95以降、全く弦楽四重奏曲に手を付けていなかったが、1824年第12番 作品127を書き上げ、翌年シュパンツィヒ四重奏団が初演を行った。同楽団はさらにその後弦楽四重奏曲第13番 作品130、第15番 作品132の初演も受け持っている。また、シューベルト弦楽四重奏曲イ短調 D804を初演したのもこの四重奏団であった〔〔〔From chamber to concert hall, by Tully Potter The Cambridge Companion to the String Quartet, edited by Robin Stowell, accessed 12 April 2014〕。
1830年のシュパンツィヒの死後、リンケはヴァイオリニストのレオポルト・ヤンサ1834年に結成した四重奏団に所属していた〔〔。
リンケはチェロ協奏曲をはじめとする、チェロのための楽曲をいくつか作曲している〔。
リンケは1837年にこの世を去った。音楽雑誌『新音楽時報』には次のような死亡記事が掲載された。

ベートーヴェンは親友であった彼のために多くを書いた。彼によるベートーヴェン作品の表現は独特もので、私は他のチェリストがこのような解釈をするのを1度も耳にしたことがない。それは時によって軽薄、攻撃的、気紛れ、情熱的等々になり得るもので、つまるところそれは求められる気分の中に彼自身を表現すること、そしてベートーヴェンの本質的な様式を描き出すということなのだ〔Obituary ''Neue Zeitschrift für Musik'', Vol. 6, 21 April 1837, p130, accessed 16 April 2014〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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