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東野 幸治(ひがしの こうじ、1967年8月8日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者である。兵庫県宝塚市出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業)所属。身長178cm、体重65kg、血液型はO型。兵庫県立宝塚高等学校卒業。愛称はひがしのり(髪の毛が濡れた時に頭に海苔がのっているようだったから)〔他にも、チリ毛(天然パーマから)、白い悪魔(色白で人の不幸をよく嘲う事から)、チリチリ、かたやきそば、陰毛食べ食べ(野性爆弾の川島邦裕命名)、2軍のボス(有吉弘行による命名)、東野りん(出川哲朗による命名および特にそう呼称している)などがある。〕。 == 来歴 == 1985年、高校3年生の時に吉本興業の新人オーディションを受け合格し、そのまま芸人となる。当時、お笑いブームが終わりダウンタウンという新しい世代の芸人を中心に吉本興業が新たなムーブメントを起そうとしていて、そのオーディションの一環でダウンタウンが2丁目劇場で公開録音していた「心斎橋お笑い探検隊」(ラジオ大阪)というラジオ番組に出演する。番組に出演すると豪華商品がもらえると友達に誘われたのがきっかけであるが、もらえたのはボールペンであった。なお、同じオーディションをリットン調査団も受けていた。一時期、大学に通う友人に乗せられ大学受験を決意し芸人を休業するも受験に失敗し、その後は芸人活動に本腰を入れる。 若手時代は心斎橋筋2丁目劇場を中心に活動、ダウンタウンが司会を務める公開生番組『4時ですよ〜だ』などに出演していた。番組開始当初は素人参加コーナー「ダウンタウンの欲望」の募集の告知を呼びかける「欲望の男」だけの役であったが、次第に頭角を現し、最後の半年は今田耕司・石田靖らとともに司会を任されることとなる。また『4時ですよ〜だ』が放送されていた頃、今田とのコンビで2丁目劇場の超若手が出演するライブイベント「2丁目jrたんけんたい」(上部組織にダウンタウンがメイン司会を務める「2丁目探検隊」というライブがあった)の司会進行を担当していた。この頃の月収は7~8万円程度で、とくに危機感も向上心も湧かなかったという。 また、同時期に夕方の帯番組として放送されていた圭・修が司会を務める『素敵!KEI-SHU5』では、白いランニングにトレパン姿の「セニョール東野」というキャラクターで各地をリポートするVTR企画も担当(このセニョールのキャラは、当時の舞台上でのネタで演じられていたものだった)。 『4時ですよ〜だ』の終了後、今田らと共に、当時立て直しが急務とされていた吉本新喜劇の補強メンバーとして出向を命じられる。当初は吉本新喜劇行きをどうしても受け入れる事ができず、芸人を引退し植木屋への転職を考えていた。しかし、今田らの熱心な説得により芸人引退を思い止まり、新喜劇入りも受け入れる事になる。その吉本新喜劇では主に主役として出演する。その後、24歳で結婚、子供をもうける。今田同様、ダウンタウンを慕い、彼らが上京した1年後に東京へ進出。NSC出身ではないため、4期生で数ヶ月先輩である今田などには敬語を使い、ほぼ同時期に芸能界デビューした木村祐一には、東野の方が数ヶ月先輩ではあるものの同期として接し(ただし、初対面の時木村は自分が東野より数ヶ月後輩という事を知っていたが、東野に「木村さん」と言われたのをきっかけに「東野」と呼び捨てになったと言う)、5期生の辻本茂雄に対しては先輩として振舞っている。ただし最近では、約2年後輩の石田靖や、約3年後輩の松村邦洋に対して『ほぼ同期』『40歳を超えたら(2~3年程度の芸歴差なら)同期と同じ』といった発言もしている〔朝日放送『東西芸人いきなり!2人旅』2012年7月8日・7月29日放送分で発言。〕。同い年には月亭方正(1年数ヶ月後輩)や雨上がり決死隊・蛍原徹(2年数ヶ月後輩)や、他の事務所では前述の松村邦洋、さまぁ~ずなどがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東野幸治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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