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ライナ・カバイヴァンスカ(、ラテン文字転写:Raina Kabaivanska, 1934年12月15日 -)はブルガリアの歌手(ソプラノ)。ソプラノの中でも「スピント・ソプラノ」の性質を持ち、ヴェルディやプッチーニ作品での歌唱においては、同じ世代のソプラノの中でもトップクラスの資質を持つ。''、ラテン文字転写:Raina Kabaivanska, 1934年12月15日 -)はブルガリアの歌手(ソプラノ)。ソプラノの中でも「スピント・ソプラノ」の性質を持ち、ヴェルディやプッチーニ作品での歌唱においては、同じ世代のソプラノの中でもトップクラスの資質を持つ。 ==来歴== ライナ・カバイヴァンスカは1934年12月15日、ライナ・ヤキノヴァとしてブルガリアのブルガスで、作家、獣医師およびブルガリアの国営旅行業者「バルカンツーリスト」経営者の父と物理学教授の母の間に生まれる〔#Kabaivanska〕〔#AIOL〕。間もなくソフィアに移り、同地で音楽に親しみ始める〔。ソフィア音楽院に入学後、ライナは労働者のための芸術集団に加入し、ソプラノとメゾソプラノのためのアリアをいくつか歌うようになる〔。やがて、声域がメゾソプラノよりかはソプラノに適していることが分かり、以降はソプラノ一本に専念することとなった〔#Novinite〕。また、付属合唱団のメンバーも兼ね、1957年にチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』のタチアナ役でデビューし、ヴェルディ『仮面舞踏会』の最終場面にも出演した〔。このソフィア音楽院時代、ライナは当時はブルガリア国内では聴取することが禁じられていた外国放送を友人とともにひそかに聞き、そこでマリア・カラスの歌声に注目するようになる〔。 翌1958年、ライナはブルガリア政府からの奨学金を得てイタリアに留学。ライナ自身の2011年の回想では、当初の留学先はイタリアではなかったようだが、カラスへの憧れからイタリアに変更してもらった〔。ミラノとヴェルチェッリにてに師事してさらなる研さんに励む。1959年、ライナはプッチーニ『外套』のジョルジェッタ役でイタリア・デビューを果たした。2年後の1961年には、ファーノでのレオンカヴァッロ『道化師』のネッダ役でイタリアでの評判を決定づけ、指揮者アントニーノ・ヴォットーやジャナンドレア・ガヴァッツェーニの推薦によりスカラ座にも同じ1961年にベッリーニ『』のアグネス役でデビューするが、後者では共演したジョーン・サザーランドのスタイルと逆の「適切な」歌唱で公演を務めた〔。1962年、ライナはイタリア国外に進出し、メトロポリタン歌劇場(メト)にはカルロ・ベルゴンツィとの共演による『道化師』ネッダで、コヴェント・ガーデン』にはゲオルク・ショルティ指揮、マリオ・デル=モナコとティート・ゴッビ出演のヴェルディ『オテロ』デズデーモナ役でそれぞれデビュー〔。アメリカにおいては1961年から1968年の間、当時ボルチモアに引退していた往年の大ソプラノであるローザ・ポンセルに歌唱技術などの教えを乞い、その教えをヴェルディの『運命の力』レオノーラ役と『イル・トロヴァトーレ』のレオノーラ役、プッチーニ『蝶々夫人』の蝶々さん役を演じる際に適用した〔〔 p.291〕。 以降、ライナはボリショイ劇場、テアトロ・コロン、ウィーン国立歌劇場、ハンガリー国立歌劇場などの世界の主要歌劇場を席巻。1973年には再建なったトリノのテアトロ・レージョで、カラスの演出によるヴェルディ『シチリアの晩鐘』にエレナ役で出演。1973年9月にはNHKの招聘によるNHKイタリア歌劇団の第7回公演(NHKホール)にて日本を訪れ、オリヴィエロ・デ・ファブリティース指揮の『トスカ』で表題役を歌った。『トスカ』の公演ではフラヴィアーノ・ラボー(カヴァラドッシ)、ジャンピエロ・マストロメイ(スカルピア)と共演したが、ラボーが短躯ゆえに一苦労があった。イタリア歌劇団に関わった元NHKチーフディレクターの武石英夫によれば、ラボーのために特注のシークレットシューズを作ったものの、それを履いたところでライナの髪の毛を除いた高さにしか届かなかった〔#クラシックジャーナル pp.77-78〕。2年後の1975年にはパリ・オペラ座に『イル・トロヴァトーレ』レオノーラでデビューし、1978年からはヘルベルト・フォン・カラヤンの知遇を得てウィーンでの『イル・トロヴァトーレ』公演に出演したほか、1981年と1982年のザルツブルク音楽祭でもカラヤン指揮のヴェルディ『ファルスタッフ』でアリーチェ・フォード役を務めた〔。 歌手活動のかたわらで、ライナはシエナのキジアーナ音楽院で教鞭をとり、1992年からはトリノでマスター・クラスを開始している〔。また世界各地の権威ある国際コンクールの審査員を務めている。2007年9月8日にモデナの大聖堂で行われたルチアーノ・パヴァロッティの葬儀に際しては、『オテロ』から「アヴェ・マリア」を歌った。新しいレパートリーの開拓も惜しまず、レハールの『メリー・ウィドウ』、ヤナーチェクの『イェヌーファ』、ヴァイルの『闇の女』などの20世紀に作られたオペラも手掛けている〔。2002年には内にブルガリアの才能ある若い芸術家への支援を目的とした「ライナ・カバイヴァンスカ財団」を創設している。 2011年5月、ソフィアのマスコミのインタビューに応じたライナは、「デビューから54年経った今でも、イタリアはおろか世界の舞台を席巻したとは思っていない」と述べ、またイタリアに留学したままそのまま居ついたことに関しては、「当時の政権に公然と反対することは不可能で、家族は人質にされたも同然の状態であった」として、ライナ自身も何度か個人的に脅迫を受けたことを明かした〔。2009年9月にソフィアと故郷ブルガスでソフィア・フィルハーモニー管弦楽団とのガラ・コンサートに出演したあとは公的なコンサート出演はアナウンスされていないが〔公式サイトの当該記事のあとは、マスタークラスの案内がメインである。〕、マスタークラスの受講生に交じって、飛び入りでガラ・コンサートに出演している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ライナ・カバイヴァンスカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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