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ラインハルト・ハイドリヒ : ミニ英和和英辞書
ラインハルト・ハイドリヒ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ラインハルト・ハイドリヒ : ウィキペディア日本語版
ラインハルト・ハイドリヒ

ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(''Reinhard Tristan Eugen Heydrich'', 1904年3月7日 - 1942年6月4日)は、ドイツ政治家、軍人。
国家保安本部(RSHA)事実上の初代長官〔ハイドリヒは存命中にはRSHA長官を名乗らず、の称号を名乗った。これは党と国家の両者からの支配を回避し、ヒトラーのみに直属するためであった。〕。ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者であった。その冷酷さから「金髪の野獣(Die blonde Bestie)」と渾名された。戦時中にはベーメン・メーレン保護領チェコ)の統治にあたっていたが、大英帝国政府およびチェコスロヴァキア在英亡命政府が送りこんだチェコ人部隊により暗殺された。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および警察大将(General der Polizei)。
== 経歴 ==

=== 前半生 ===
ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒは、1904年3月7日午前10時30分頃、ドイツ帝国の領邦プロイセン王国ザクセン州Provinz Sachsen)の都市ハレのマリエン通り(Marienstraße)21番地に生まれた。ライプツィガー塔 に近い場所である〔Mario R. Dederichs著『HEYDRICH THE FACE OF EVIL』(CASEMATE)22 - 23ページ〕。
父は音楽家リヒャルト・ブルーノ・ハイドリヒ(Richard Bruno Heydrich)。母はザクセン王国ドレスデンの宮廷で宮廷顧問官をしていた音楽研究者ゲオルク・オイゲン・クランツ教授(Georg Eugen Krantz)の娘、エリーザベト・マリア・アンナ・アマリア・クランツ(Elisabeth Maria Anna Amalia Kranz)〔大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)16 - 17ページより〕。
1904年10月6日に聖フランツィスクス・ウント・エリーザベト教会(St. Franziskus und St. Elisabeth)において洗礼を受けた〔。ハレの貴族エルンスト・フォン・エーベルシュタイン男爵が代父であった〔Callum Macdonald著『The Assassination of Reinhard Heydrich Callum Macdonald』(Birlinn Ltd)14‐15ページ〕。
ラインハルト」の名前はブルーノが作曲したオペラ『アーメン』(Amen)の主人公の名前から付けられた〔〔。また「トリスタン」の名はリヒャルト・ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の主人公の名前から付けられ、「オイゲン」の名はエリーザベトの父の名前から付けられた〔。愛称は「ライニ」(Reini)〔大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)18 - 19ページより〕。
ブルーノとエリーザベトの間には既に1901年に姉マリア(Maria Heydrich)が生まれていた。さらに1905年には弟ハインツ・ジークフリート(Heinz Siegfried Heydrich)が誕生した〔
父ブルーノは貧しい木工職人の息子で、当初はダンサーとしてデビューしていた。しかしダンサーとしては二流か三流の人物であった。その後、作曲家となり、オペラ『アーメン』で大きな成功を収めた。さらにエリーザベトとの結婚を通じて上流階級へ顔を出すようになった。ラインハルトが生まれた頃にはブルーノはハレ音楽学校を創設してその校長となっていた。ブルーノはエリーザベトに頭が上がらず、彼女の求めで元々福音派だった信仰をカトリックに変えている。ラインハルトも母エリーザベトから厳格なカトリック教育を受けた。しかし母の期待に反してラインハルトは後に反カトリックになった。またキリスト教自体も好きではなかった〔。
父ブルーノにはユダヤ人であるという噂があった。ブルーノの母エルネスティーネがグスタフ・ロベルト・ズュース(Gustav Robert Süss)(ズュースはユダヤ人によく見られる姓)という男と再婚したためである。実際にはグスタフ・ズュースはユダヤ人ではなく〔、またズュースとブルーノに血のつながりはないが、エルネスティーネが「ズュース=ハイドリヒ」の姓をしばしば使い、また音楽年鑑などにもブルーノについて「ブルーノ・ハイドリヒ、本名ズュース」などと記載されたため、この噂はもっともらしく聞こえた。ラインハルトは後々までこの噂を政敵に利用され、噂を消し去ろうと躍起になった。
1907年、ブルーノは、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝、プロイセン国王)の48歳の誕生日のためのオペラを作る名誉を与えられ、オペラ『平和』(Frieden)を作曲し、マインツで上演された。ブルーノの音楽家としての経歴はこの頃に絶頂を極めた〔Mario R. Dederichs著『HEYDRICH THE FACE OF EVIL』(CASEMATE)28 - 29ページ〕。
ブルーノの音楽学校の生徒数は1901年には20人だったが、1904年には134人、1912年の最盛期には400人に達していた。ブルーノが雇い入れた教師の数も1902年には6人だったのが、1914年には常設教師26人と臨時教師9人になっていた〔Mario R. Dederichs著『HEYDRICH THE FACE OF EVIL』(CASEMATE)26 - 27ページ〕。
ラインハルトも父の教育で幼いころより音楽をたしなみ、やがてバイオリンの名手となった〔。
1914年にハイドリヒは、カトリック系のハレ王立実科ギムナジウムへ入学した〔〔。入隊できる年齢ではなかったため、第一次世界大戦には出征していない。しかし大戦中にはすでに民族主義的な思想を持ち、人種差別主義者であったという〔。
ドイツ革命によるドイツ帝国の崩壊と第一次世界大戦敗戦の混乱でドイツにインフレが襲い、ハイドリヒ家は経済的に困窮するようになった〔ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)172ページ〕。
1919年にハイドリヒは15歳にしてゲオルク・メルカー少将(Georg Maercker)率いるドイツ義勇軍に参加している〔。民族主義団体「ドイツ民族防衛同盟」(Deutschvölkischer Schutz- und Trutzbund)にも所属し、反ユダヤ主義的思想に影響された〔Callum Macdonald著『The Assassination of Reinhard Heydrich Callum Macdonald』(Birlinn Ltd)10-11ページ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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