翻訳と辞書
Words near each other
・ ラウバル
・ ラウファッハ
・ ラウフェイ
・ ラウフェンシュタイナー
・ ラウフェン・アム・ネッカー
・ ラウフ・イニレーエフ
・ ラウフ・オルバイ
・ ラウフ・デンクタシュ
・ ラウフ・マフフーズ
・ ラウブル
ラウプ
・ ラウプハイム陸軍飛行場
・ ラウペン
・ ラウマ
・ ラウマ (小惑星)
・ ラウマ旧市街
・ ラウマ級ミサイル艇
・ ラウム
・ ラウム (悪魔)
・ ラウラ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ラウプ : ミニ英和和英辞書
ラウプ
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ラウプ ( リダイレクト:フェルディナント・ラウプ ) : ウィキペディア日本語版
フェルディナント・ラウプ

フェルディナント・ラウプ(''Ferdinand Laub'', 1832年1月19日 プラハ - 1875年3月17日 ボルツァーノ近郊)は、チェコヴァイオリニスト作曲家
== 略歴 ==
父エラスムス(Erasmus Laub, 1794年 - 1865年)は当時の著名なヴァイオリニスト、音楽教師。6歳で公開の場に出演し、1847年2月27日に10歳で最初の自分ひとりの演奏会を開いた。1843年から1846年までプラハ音楽院に学び、1846年3月29日には、エクトル・ベルリオーズフランツ・リストの前で演奏を行なっている。ベルリオーズによってパリに向かったが、結局ウィーンに落ち着いてヴィルトゥオーゾとしての活動を開始し、オーストリア皇帝フェルディナント1世に宮廷楽団員として2年間仕えた。
1850年にヨーロッパ中を巡演し、1851年ロンドン万国博覧会では、批評家からシャルル=オーギュスト・ド・ベリオアンリ・ヴュータンと並ぶ世界的な巨匠として称賛された。1853年から1855年まで楽長リストの下でヴァイマル宮廷楽団のコンサートマスターに就任し、1855年から1862年までベルリンシュテルン音楽院の教授を務めた。その後1857年から1865年までプラハデンマーク、ウィーン、サンクトペテルブルクベルギーフランスオランダを訪れ演奏旅行を行い、イングランドノルウェースウェーデンに行ってアデリーナ・パッティと共演した。1860年イェーテボリベドジフ・スメタナを訪ね、共同で演奏会を2度開いた。
1863年にヨーゼフ・マイゼーダーの後任としてオーストリア宮廷演奏家となる。1866年モスクワ音楽院教授に任命され、ロシア音楽協会のコンサートマスターや弦楽五重奏団の第1ヴァイオリン奏者も務めた。ピョートル・チャイコフスキーはラウプを「現代の最も偉大なヴァイオリニスト」と呼び、ラウプの死後、1876年の《弦楽四重奏曲 第3番 変ホ短調作品30をラウプの霊前に捧げた。ラウプはチャイコフスキーの《弦楽四重奏曲 第1番》と《第2番》の初演で第1ヴァイオリンを受け持っており、チャイコフスキーの作品の理解者であった。
1874年肺病のために活動を停止せざるを得なくなる。カルロヴィ・ヴァリに転地した後、メラーノの湯治場に向かう道中で他界した。ヴィシェフラト墓地に埋葬されている。
ヴィルトゥオーゾやコンサートマスターとしてだけでなく、音楽教師としても名を揚げ、門下にアドルフ・ブロツキーやヤン・フジマリーを擁している。同じくヴァイオリニストや作曲家となった息子ヴァーシャ(Váša, 1857年 - 1911年)も指導した。ラウプはまた詩人でもあった。作曲家としては、いくつかの小品や《弦楽四重奏曲 嬰ハ短調》を遺した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フェルディナント・ラウプ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ferdinand Laub 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.