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ラウル・モンデシー : ミニ英和和英辞書
ラウル・モンデシー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラウル・モンデシー : ウィキペディア日本語版
ラウル・モンデシー[ちょうおん]

ラウル・モンデシーRaúl Ramón Mondesí Avelino , 1971年3月12日 - )はドミニカ共和国サン・クリストバル州出身の元プロ野球選手(右翼手)。右投右打。
息子が2人おり、長男のラウル・アダルベルト・モンデシーは、カンザスシティ・ロイヤルズに、次男のラウル・モンデシー・ジュニアは、タンパベイ・レイズ傘下でそれぞれプレーしている。
== 経歴 ==
ドミニカ共和国にファーム組織「ドジャース・アカデミー」を持つロサンゼルス・ドジャースに見出され入団。7月19日にメジャー初出場を果たす。初のフルシーズンとなった(ストライキでシーズン短縮)は112試合に出場し打率.306、16本塁打、56打点をあげてナ・リーグ新人王に選出された。また、ドジャースは - 1996年にかけて5年連続で新人王を輩出した。順にエリック・キャロスマイク・ピアッツァ、モンデシー、野茂英雄トッド・ホランズワースである。
には打率.285、26本塁打、そして27盗塁とスピードをアピールし、オールスター出場。ロベルト・クレメンテを思わせる強肩でゴールドグラブ賞も獲得した。
には打率.297、24本塁打、88打点、14盗塁でチームのワイルドカードでのプレーオフ進出に貢献。
には自己最高の打率.310、そして30本塁打、32盗塁を記録して、球団史上初の「30-30クラブ」を達成した。また、モンデシーが30本塁打に到達したことで、ドジャースとしては以来となる30発カルテット(ピアッツァ、キャロス、モンデシー、トッド・ジールの4人)が誕生している。
にも30本塁打を打つが盗塁が16に終わるも、に33本塁打、36盗塁で2度目の「30-30」を達成。その年限りでトロント・ブルージェイズに移籍。
移籍初年度のは故障で96試合の出場に終わったが、それでも24本塁打、22盗塁を記録。は30盗塁を記録も本塁打が27に終わり、3度目の「30-30」はならず。
以後はチームを転々とし、途中にニューヨーク・ヤンキース、途中にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍。成績は下降気味であったが、2003年はそれでも.272、24本塁打、71打点とまずまずの活躍。
2月ピッツバーグ・パイレーツと1年115万ドル(2005年はパイレーツが契約オプションを保持し、60万ドルで解雇できる)契約を結んだが、わずか26試合に出場して5月11日に、突如個人的な理由でドミニカ共和国に帰国。のちにその理由は、打撃インストラクター、マリオ・ゲレーロからの脅迫によるものと判明したが、チームからは1週間後に解雇された。10日後にアナハイム・エンゼルスと契約したが、状況が疑わしかったため、メジャーリーグ機構によって調査された。しかし故障もありわずか8試合の出場で故障者リスト入りし、7月に解雇となった。はアトランタ・ブレーブスと契約したが、もはや往年の力はなく、5月下旬に解雇され、そのまま現役を引退した。
引退後はドミニカ共和国に戻った。5月15日に、ドジャー・スタジアムでのドジャース対カージナルスの試合を観戦している姿がスクリーンに映し出されると、ファンから現役時代と同じように「Ra-ooooo-ool!」という歓声をかけられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラウル・モンデシー」の詳細全文を読む




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