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ラクシュミー・バーイー : ミニ英和和英辞書
ラクシュミー・バーイー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラクシュミー・バーイー : ウィキペディア日本語版
ラクシュミー・バーイー[ちょうおん]

ラクシュミー・バーイー (英語:Lakshmi Bai, 1835年頃 - 1858年6月18日)は、インド中部にあったマラーター同盟の小王国ジャーンシー藩王国の王妃。インド大反乱の指導者の一人で、イギリス軍相手に勇戦し、「インドのジャンヌ・ダルク」とも称される。
==生涯==

===藩王国の併合===
生年は定かではなく、1835年説の他に、1820年代後半(1828年頃)説もある。
没落したマラーター貴族の出身とされ、幼い頃にはマラーター同盟の元宰相バージー・ラーオ2世に庇護されていたというが、はっきりしない。少女時代より剣術を嗜み乗馬を好んだというが、これも伝説の域を出ない。
彼女がはっきりとした記録に現れるようになるのは、1842年にジャーンシーの藩王ガンガーダル・ラーオに嫁いでからである。ジャーンシー藩王国は、古来交通の要衝として繁栄していたマラーター同盟の小王国で、イギリスとの間に軍事保護条約を結び、藩王国となっていた。
1851年、王との間には一子をもうけたがすぐに病没してしまい、王は1853年以降から重病となり、彼女は養子を迎えると共に藩王国の存続を図るべく奔走したが、インド総督ダルフージーは、後継者のいない藩王国はイギリス東インド会社に併合してしまう、「失権の原理」(いわば末期養子を認めない無嗣改易)という藩王国併合政策を推進したため、その尽力もむなしく、イギリス側は全く取り合わなかった。
同年12月、王が病没すると、1854年2月27日にジャーンシー藩王国はイギリスに併合されてしまい、ラクシュミー・バーイーが城の接収時に告げた拒絶の言葉である、

は今日でも良く知られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラクシュミー・バーイー」の詳細全文を読む




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