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ラシン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ラシン ( リダイレクト:ラシン・クラブ ) : ウィキペディア日本語版
ラシン・クラブ

ラシン・クラブ()または、ラシン・クラブ・デ・アベジャネダ(Racing Club de Avellaneda)は、アルゼンチンの中東部、ブエノスアイレス州の都市アベジャネーダを本拠地とするスポーツクラブ。バスケットボール、ボクシング、武道、ローラースケート、テニス、バレーボールなどの競技チームも所有しているが、サッカークラブが有名である。サッカークラブはボカ・ジュニアーズCAリーベル・プレートCAサン・ロレンソCAインデペンディエンテとともに、伝統的にアルゼンチンのビッグ5に数えられる。
アルゼンチン・フットボールの黎明期、アルゼンチン国へのフットボール普及の中心的役割を果たした英国系クラブのアルムニACが消滅した後に、(クリオージョ中心のメンバーであった)ラシン・クラブはアマチュア・リーグ時代の1913年から1919年までに7連覇(アルゼンチン・リーグの最長連覇記録)を遂げ、アマチュア時代に合計9度の優勝を果たした。そのため当時アルゼンチンにおけるアルムニの後継的存在のクラブとなり、その優れた成績からLa Academia(ラ・アカデミア:学院)という敬意を表された愛称で呼ばれるようになった。そして、この愛称は現在も引き続き用いられクラブとサポーターの誇りとアイデンティティとなっている。〔http://www.agenciaelvigia.com.ar/apodosfutbol.htm〕。プロリーグ化後に8度優勝しており、計17度のリーグ優勝している。国際舞台においては1967年にコパ・リベルタドーレスインターコンチネンタルカップを、1988年に第1回スーペルコパ・スダメリカーナとスーペルコパ・インテルアメリカーナを制している。アルゼンチンのクラブとしてはCAインデペンディエンテに次いで2番目に南米制覇を果たし、アルゼンチンで初めて世界制覇を果たした。アマチュア時代には、アルゼンチンサッカー協会(AFA)とウルグアイサッカー協会(AUF)が共同で組織したコパ・アルダオやコパ・デ・オノール・コウセニエールでも優勝している〔Palmarés ラシン・クラブ公式サイト〕。
== 歴史 ==

=== 創設期 ===

1901年5月12日、国立中央カレッジの学生グループがFCバラカス・アル・スド(Football Club Barracas al Sud)を設立し、ペドロ・ウェルネルが初代会長に就任した。しかし、FCバラカス・アル・スド設立、1周年を前に、ユニフォームの色に関して内部対立が起こった。会長側メンバーは黄色と黒の縦縞を希望し、残りの多くのメンバーは赤色を希望した。そして多数派であった反会長派である赤色支持のメンバーが離脱をし、赤色のユニフォームを着用するコロラドス・ウニードス(Colorados Unidos)が設立された。しかし、この分裂状態が長く続くことはなかった。1903年3月25日、ブエノスアイレスのアシエンダ市場で会合が行われて、両クラブの分裂解消が決定され統合することとなった。この際に出席者のひとりエルマン・ビダジャックがフランスのスポーツ雑誌を手にしていて、そこにはフランスのフットボール・クラブ、ラシン・パリが1902年に優勝した記事があった。ラシン・パリは当時、フランスでかなりの強豪チームであった。彼がこれを仲間達に見せると、喝采を持って受け入れられ、そこから、チーム名をラシン・クラブ・デ・アベジャネダに改名することが決定された〔 - Racing Club de Avellaneda Una ¡PASION!〕。そしてユニフォームに関しては、ラシン・パリのユニフォームは当時から水色と白の横縞であったが、ラシン・クラブのメンバーはユニフォームのデザインまでラシン・パリと同じにすることは止めた。ラシン・クラブの最初期のユニフォームは上下ともに白色であったが、1904年7月25日に会長側のメンバーが推していた黄色と黒色の縦縞のユニフォームを着用することが決定された。しかし、このデザインはウルグアイのペニャロールと同じということで、デビューして1週間で廃止となった。その後、ユニフォームはピンクと青の格子のデザインになり、それから1908年に青地に白の太い横縞のデザインへと移り変わっていった。しかし、1910年に、アルゼンチンの独立100周年を記念して、ユニフォームカラ―を国旗と同じ色の水色と白色に変更することにした。そして、ラシン・パリの横縞ではなく、縦縞のデザインにすることを決定し、このデザインは現在に至っている。
ラシンは1905年にアルゼンチンサッカー協会(AFA)の会員となり、アルゼンチンサッカーリーグの2部リーグでプレーした。1908年12月13日、プリメーラ・ディビシオン(1部)昇格をかけてCAリーベル・プレートと対戦。試合はリーベルが2-1で勝利した。しかし、試合後、ラシンは「リーベルのサポーターが試合中に何度もピッチに飛び降りた」ことを理由にAFAに試合の無効を訴えた。AFAはこの要求を受け入れて再試合が行われたが、再試合ではリーベルがラシンを7-1で葬り去って昇格を決めた。1909年にも昇格プレーオフに出場したが、今度はヒムナシア・ラ・プラタに敗れた。そして、1910年、4,000人の観客の前でボカ・ジュニアーズを下し、ついにプリメーラ昇格を果たした。この試合ではフェルナンデス、セミナリオ、アジャン、ウィンネ、フアン・オアコ、アンヘル・ベトゥラール、オジャルサバル、アルベルト・オアコ、フィルポ、フレルス、フアン・ペリネッティが先発メンバーに名を連ね、フレルスとA・オアコが得点した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Racing Club de Avellaneda 」があります。




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