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ラス・メニーナス : ミニ英和和英辞書
ラス・メニーナス[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラス・メニーナス : ウィキペディア日本語版
ラス・メニーナス[ちょうおん]

ラス・メニーナス』(スペイン語で「女官たち」の意)〔作品名を『 Las Meniñas 』と印字されることがあるが、元々スペイン語に " meniña " という語はない。「王宮に仕えるために貴族から選ばれた少女」という意味の言葉(オクスフォード・コンサイス・スペイン語辞典)で、ポルトガル語で「少女」を意味する " menina " からきている。恐らくスペイン語で「少女」を意味する " niña " と混同したものと思われる。〕は、1656年にスペイン黄金世紀をリードした画家ディエゴ・ベラスケスにより制作された。謎かけのような構成の作品で、現実と想像との間に疑問を提起し、観賞者と絵の登場人物との間にぼんやりした関係を創造する。『ラス・メニーナス』の複雑な構成は、西洋絵画の分野では盛んに解析された。
『ラス・メニーナス』の舞台はフェリペ4世のマドリード宮殿の大きな一室である。スペイン宮廷人(人物も特定されている)の様子を、何人かの評論家が言うようにスナップ写真のごとく、瞬間的に切り取って、写し描いてみせたのである〔1855年、ウィリアム・スターリングは『ベラスケスとその作品』の中で、「ベラスケスは、ダゲールの発明を予知していたかのように、本物の部屋、偶然集まった本物の人々を、いわば魔法で永遠に、カンバスに閉じ込めたのである。」と書いている。López-Rey (1999年), Vol. I, 211ページ.〕。
人物像のうち、幾人かはカンバスの中から鑑賞者の側に向かって注意を向け、残りの幾人かが互いに交流している。幼いマルガリータ王女を取り囲んでいるのは、お付きの女官、侍女、目付役、2人の小人と1匹の犬である。彼らの背後には、大きなカンバスに向かうベラスケス自身が描かれている。ベラスケスの視線は、絵の中の空間を超えて、絵の鑑賞者自身の立ち位置の方向に向けられている〔Millner Kahr, Madlyn. "Velazquez and Las Meninas ". ''The Art Bulletin'', Vol. 57, No. 2, 1975年6月, 225ページ.〕。背景には鏡がかかっていて、王と王妃の上半身が映っている。王と王妃は、絵の外、つまり鑑賞者の立ち位置と同じ場所に立っているように見える。また別の研究家は、王と王の像は、ベラスケスが作製中の作品が映し出されたものだと考えている。
『ラス・メニーナス』は、西洋美術史において重要な作品であると長く認められている。バロック期の画家ルカ・ジョルダーノは「絵画の神学」を象徴するものだと言い、19世紀の画家トーマス・ローレンスは「芸術の原理」と呼んだ。最近のコメントには、「ベラスケスの最高傑作、自意識過剰で計算し尽くされた絵画による示威行動、そして恐らく、これまでになされたイーゼル画の可能性への最も厳しい批評」〔Honour and Fleming (1982), 447ページ.〕というものもある。
==背景==

===フェリペ4世の宮廷===

17世紀のスペインでは、画家が高い地位を得られることは、めったになかった。絵画は、あくまで工芸であって、詩や音楽のような芸術とは見なされなかった〔 Dambe, Sira. "Enslaved sovereign: aesthetics of power in Foucault, Velazquez and Ovid". ''Journal of Literary Studies'', 2006年11月.〕。
しかし、ベラスケスは、フェリペ4世の宮廷で、苦労の末1651年2月、侍従長( aposentador mayor del palacio )に任命された。このポストのおかげで、ベラスケスは、地位と収入とを得ることができた。しかし、同時にその任務にかなりの時間をとられることとなった。人生最後の8年間で、彼は作品をほんの少し仕上げられただけだったが、その大部分は王家の肖像であった〔Carr (2006年), 46ページ〕。『ラス・メニーナス』を描いたのは、彼が王宮で働き始めて33年目のことであった。
フェリペ4世の最初の妻イサベル・デ・ボルボンは、1644年に死去、一人息子のバルタサール・カルロスも2年後に死去した。
王位継承者を亡くしたフェリペは、1649年マリアナ・デ・アウストリアと結婚〔マリアナ・デ・アウストリアは元々、バルタサール・カルロス婚約者であった。〕、マルガリータ王女は彼らの間にできた最初の子であり、絵が描かれた時点では唯一の子でもあった。その後、弟のフェリペ・プロスペロ(1657–1661)が生まれたが短命に終わり、次いでカルロス王子(1661–1700)が生まれた。カルロスは4歳で、カルロス2世として王位に就いている。ベラスケスはマリアナとその子らの肖像画を描いた〔。フェリペ自身は老年期の自分を描かせることを嫌ったが、『ラス・メニーナス』に自分が登場することは許した。1650年代初期、フェリペ王は故バルタサール・カルロスの居室のピアザ・プリンシパル(主室)を宮殿美術館としてベラスケスに与え、彼のアトリエとした。『ラス・メニーナス』の舞台は、この部屋である。フェリペ王は自身のイスをアトリエに置き、座ってベラスケスの作製を眺めることがよくあった。厳しい礼儀に縛られながらも、芸術を愛した王と画家は、非常に緊密な関係を築いたようである。ベラスケスの死後、王はその後継者についての覚書のふちに「がっくりきた」と書き残している〔Canaday, John. 『Baroque Painters』。(1969年初版、『 The Lives of the Painters 』より)。New York: Norton Library, 1972年。参照: Kahr (1975年), quoting Pacheco.〕。
1640年代から1650年代にかけてのベラスケスは、宮廷画家と、フェリペ4世のヨーロッパ芸術のコレクションを集める学芸員の2役を務めていた。彼は自身の任務に関して、かなりの自由を与えられていたようである。ベラスケスは、最も価値ある絵画を保管する部屋の装飾やインテリアデザインについて指示し、鏡や彫像、タペストリーを付け加えた。彼は歴代スペイン王の肖像についても、典拠、作製者の特定、掲示、目録作成などの責任者を務めた。1650年代初めには、ベラスケスは鑑定家として、スペインで広く尊敬を集めていた。今日におけるプラド美術館のコレクションのほとんどは、ベラスケスの指示のもと集められたもので、その中にはティツィアーノラファエロルーベンスの絵も含まれている〔Alpers (2005年), 183ページ.〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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