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ラスール朝(ラスールちょう)は1229年から1454年まで イエメンとハドラマウトを支配したイスラーム王朝のひとつ。ラスール朝は、 アラビア半島の南西部の州から エジプト人の アイユーブ朝が去った後に勢力を持った。 ラスール朝は、ラスール(彼の本名はMuhammad ibn Harun)という名祖を持つ先祖の子孫で、ラスールはテュルク人のオグズ族の族長だった。後年彼らはアラブの家系を収集し、古代アラブ人部族の子孫だと主張した。ラスールは アッバース朝 カリフの使者として1180年頃イエメンに来た。彼の息子のアリーは一時メッカの知事となった。ラスールの孫のUmar bin Aliはラスール朝の最初の スルタンとなった。 ''Rasūl''はアラビア語で、''伝令''を意味する (この語の場合の”伝令”とは、イスラム教の預言者という意味合いは薄い)。王朝の支配の間、ラスール王朝の人々は伝説的な 総主教 Qahtanの子孫を名乗った。 アッバース朝崩壊とエジプトのファーティマ朝の勃興により、地中海とインドの間の貿易ルートは、イラク経由から紅海経由に比重が移っていった。ラスール王朝の時代(1229-1454年)は、紅海・アラビア海を通じた地中海とインド、東アフリカ間の貿易が活発となり、イエメンは地中海-インド間の貿易網の中心部のひとつに位置していたため、アラビア半島南部や紅海沿岸の港湾都市は繁栄していたが、権益争いの場ともなった。同王朝の時代は、エジプトではマムルーク朝、イランではイル汗国とティムール朝が勃興し、これらの大国と貿易路の確保を巡り激しく争った。 ==歴史== 初代スルタン、マンスール・ウマル一世は、アイユーブ朝が十字軍に忙殺されている情勢を背景に、イエメン地方で起こった内乱に乗じて独立した(1229年)、ヒジャーズ地方(アラビア半島南西の紅海沿岸地方。メッカやメディナがある)に軍隊を派遣し、1241年にはアイユーブ朝をメッカから放逐し、ラスール朝の勢力圏とした。第二代スルタン、ムザッファルは1279年ハドラマウト地方(アラビア半島南岸。イエメンとオマーン地方の間の地域)に遠征し、アラビア海と紅海間の中継貿易路の支配を確立した。 1323年以降ラスール朝はスルタン位を巡る内紛が国内部族間の抗争に発展した。第五代スルタン、ムジャーヒドはマムルーク朝に救援を求め、1325年にマムルーク朝から遠征軍が派遣された。マムルーク朝は交易路の直接支配を目論み、ラスール朝を支配下に置くことを目的として遠征軍を派遣したものと思われるが、この時は内乱鎮圧後、スルタン・ムジャーヒドによる国内統一が急速に推進され、マムルーク朝のイエメン支配は失敗した。1330年にはイブン・バットゥータが訪れている。1424年、マムルーク朝は再度遠征軍を派遣しメッカの外港にあたるジッダを奪取することに成功した。この結果、インドからの交易船は、イエメンの主要港であるアデンを避けて、直接ジッダに入港することになり、マムルーク朝の商業利益を増大させる一方、ラスール朝の経済力を低下させることになった。13代スルタン・ムザッファル2世(1442年)以降17代スルタン・ムアィヤド(1452-54年)の間に短期間に4人のスルタンが立ち内部抗争を展開し王朝は衰亡した。特に16代スルタン・マスウード(1444-54年)と13代スルタン・ムザッファルの争いでが、ムザッファルがジュバン地方の部族長ターヒル家を介入させた。打ち続く内乱に嫌気のさしたザビード(イエメン北部)の街の守備隊や家臣達はスルタン・ムアィヤドを擁立した。ムザッファルは史料から途中で消えてしまい消息は不明だが、マスウードは1454年に退位し、インドに亡命したと記載のある史料がある。ムアィヤドはメッカに亡命し、1454年新王朝ターヒル朝が成立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラスール朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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