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ジャラーラトゥッディーン・ラズィーヤ(ウルドゥー語:جلالۃ الدین رضیہ, ヒンディー語: जलालत उद-दीन रज़िया, Jalâlat ud-Dîn Raziyâ, 1205年 - 1240年 10月13日)は、北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第5代の君主(在位:1236年 - 1240年)。奴隷王朝およびデリー・スルターン朝における唯一の女性君主である。ウルドゥー語風の読みではラズィヤー(رضیہ)となる。 ==生涯== ===即位以前と即位=== 1229年、父王イルトゥトゥミシュは自身の息子らに王としての見込みがないと考え、娘ながら見込みのあったラズィーヤを後継者に指名し、貴族や神学者(ウラマー)たちにこの指名に賛同するよう促して、1236年4月29日に死去した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.113〕。 ところが、イルトゥトゥミシュの死に際して、ラズィーヤはその場に居合わせていなかったため、貴族らは臨終の場にいた兄のルクヌッディーン・フィールーズ・シャーを擁立し、継承者であるはずのラズィーヤは退けられた〔荒『インドの「奴隷王朝」:中世イスラム王権の成立』、p.53〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.114〕。 だが、フィールーズ・シャーは王座を得るとすぐに快楽にふけるようになり、その生母であるシャー・トゥルカーンの専横ともいえる政治干渉から貴族らの反感を買うようになり、北インド各地で反乱が起こった〔荒『インドの「奴隷王朝」:中世イスラム王権の成立』、p.53〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.114-115〕。 フィールーズ・シャーはデリーから出陣したが、ラズィーヤはこの間にシャー・トゥルカーンから殺害されることを恐れて、金曜礼拝に集まったデリーの人々に援助を求めた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115〕。その際、彼女は当時の習慣に従って、不当な扱いを受けた者が身に着ける赤い服を着用し、自分が有能であることを証明する機会を与えてほしいと訴えたとされる〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115〕。 ラズィーヤの訴えが功を奏し、人々はデリーの王宮を襲い、シャー・トゥルカーンは捕えられた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115〕。フィールーズ・シャーは秩序回復のためにデリーへと引き返したが、その指揮下のアミールらにも裏切られ、フィールーズ・シャーも捕えられた〔荒『インドの「奴隷王朝」:中世イスラム王権の成立』、p.53〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115〕。 同年11月9日、ラズィーヤはフィールーズ・シャーの処刑を命じ、その王座を手にした〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラズィーヤ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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