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ラダビノット・パール : ミニ英和和英辞書
ラダビノット・パール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラダビノット・パール ( リダイレクト:ラダ・ビノード・パール ) : ウィキペディア日本語版
ラダ・ビノード・パール[ちょうおん]

ラダ・ビノード・パール(, , , 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インド法学者裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人
ヒンドゥー法を専攻。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」〔現:講談社学術文庫全2巻〕)で知られる。東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した〔東京裁判研究会『共同研究 パル判決書 (下)』 講談社学術文庫 P749, P750〕。
ベンガル語表記では『ラダビノド・パル』、ヒンディー語表記では『ラーダービノード・パール』となるが、パール家の人間は「パル」と呼んで欲しいと希望している〔中里成章『パル判事 インド・ナショナリズムと東京裁判』(14頁、岩波新書、2011年2月)〕。東京裁判で務めた役職から、日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。
== 経歴 ==

1886年にインド・ベンガル州ノディア県クシュティヤ郡カンコレホド村に生まれた。父親はパールが3歳の時に死亡し、母親は子供達を一人で育て上げた。パールは数学の道に進んでいたが、母親はインド独立のためには息子を法律家にすることが必要だと考えていた。1907年カルカッタプレジデンシー・カレッジにおいて理学士試験に合格、数学賞を受賞。翌年カルカッタ大学にて理学修士を取得。1910年にインド連合州会計院書記生として就職した。
1911年にカルカッタ大学理学部、法学部を卒業し、1920年に法学修士試験に最優等にて合格、翌年弁護士として登録。1924年にはカルカッタ大学にて法学博士号 (LLD) を取得した。論文は「『マヌ法典』前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」であった。
1923年から1936年までカルカッタ大学法学部教授。1925年にはインド学会最高の栄誉であるカルカッタ大学タゴール記念法学教授に選出された〔1930年、1938年にも選出された〕。1927年にインド植民地政府の法律顧問に就任、1937年には国際法学会総会に招聘され、議長団に選出される。
1941年にカルカッタ高等裁判所判事に就任。1944年、カルカッタ大学総長に就任し、1946年3月まで務めた。
1946年5月から開かれた極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣された〔インドは1947年にイギリスから独立している。従ってパールの立場は、裁判が開始された1946年の時点では「英領インド代表判事」、結審した1948年では「独立インド代表判事」と変化している。〕。
1950年10月に再び来日し、約一ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行う。広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。
1952年下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。
1953年、下中彌三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所で「インド法哲学思想の潮流」を講演。同年、インド国会下院議員補欠選挙に国民会議派から立候補し、3万6319票を得るが次点で落選(当選者は、5万8211票を獲得した共産党候補)。
1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任した。1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。
1966年10月に清瀬一郎岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。82歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラダ・ビノード・パール」の詳細全文を読む




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