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ラヂミチ〔『ロシア史』p17等〕〔『世界歴史体系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p18等〕(ラジミチ〔『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p39等〕)族(、、)は、9 - 12世紀の年代記(レートピシ)に言及される、スラヴ人の部族あるいは部族連合である。ドニエプル川の上流域からソジ川流域(現ベラルーシ・ホメリ州、マヒリョウ州)にかけての範囲を居住地としていた〔Радимичи // ブロックハウス・エフロン百科事典〕。 『原初年代記』には、ラヂミチ族はリャフ人(ru)(ポーランド人)より出でてルーシの地に定住し、またルーシ(キエフ大公国)にダーニ(貢税)を支払っているということが記されている。この記述を含め、伝説的にはポーランド由来の部族とみなされているが〔『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p40〕、その起源に関する定説は打ち出されていない。 ==歴史== 年代記にはラヂミチ族の名は、その先祖のラヂムという人物に由来すると記されている〔『ロシア史』p20〕。また、ラヂムはラヂミチ族の長であり、原ポーランド(年代記上はレヒトィ(ru):リャフ人の地)から来たとされている〔Шахматов А. А. Древнейшие судьбы русского племени. — Пг., 1919. — С. 25, 37-39.〕。年代記には、ラヂミチ族の公(クニャージ)の名は記されていないが、ラヂミチ族独自の軍隊の存在を示す記述があり、自前の指導者を有した集団であったことは確実である。 年代記上の初出は885年の、キエフ公オレグが支配圏を拡大し、ラヂミチ族がそれまでハザールに対して行っていた税の支払いをやめさせ、新たにダーニ(貢税)を課したという記述である〔Радимичи // ソビエト大百科事典〕。907年、ラヂミチ族はオレグの軍に加わり、コンスタンティノープルへの遠征(ru)を行った。ラヂミチ族はこのように、しばらくの間キエフの統治下にいたが後に決別し、984年にはキエフ大公ウラジーミル1世のヴォエヴォダ(軍司令官)ヴォルチー・フヴォスト(ru)の軍勢に攻め込まれた。両軍はソジ川支流のペシチャニ川(現スラウハラド付近)で戦闘となり、ラヂミチ族は敗れた。ラヂミチ族の地はキエフ大公国領に組み込まれ、後にチェルニゴフ公国、スモレンスク公国領となった。 ラヂミチ族に関する最後の言及は1169年の記述である。それ以前に、ラヂミチ族の居住範囲において言及されている都市には、クレチュト(現クルィチャウ(ru)。1136年)、プラポシャスク(現スラウハラド。1136年)、ゴミー(現ホメリ。1142年)、ロガチョフ(現ラハチョウ。1142年)、チェチェルスク(現チャチェルスク、1159年)がある。なお、現在のベラルーシ人の祖先を、ラヂミチ族や隣接するクリヴィチ族・ドレゴヴィチ族らが融合したものであるとする説がある〔『歴史の狭間のベラルーシ』p6〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラヂミチ族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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