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ラティウム戦争(ラティウムせんそう、)は、イタリア半島において、共和政ローマとローマ近隣のラティウム人およびラティウム同盟(en)の間で行われた戦争である。英語表記のラテン戦争(Latin War)とも称される。 なお、ラティウム戦争と称される戦争は2度あり、1度目は紀元前498年から紀元前493年まで、2度目は紀元前340年から紀元前338年まで行われた。 == 第一次ラティウム戦争 == この第一次戦争については、伝承上のローマ建国時の記録になるため、伝説的な事項が含まれる可能性がある。 王政ローマの第7代の王であったタルクィニウス・スペルブスは紀元前509年にルキウス・ユニウス・ブルトゥスらによって王位を追われ、ローマより追放された。ティトゥス・リウィウスによると、エトルリア出身であったタルクィニウスの援軍となったラティウム人たちによって起こされた戦争であったとされる。 最大の激戦となったレギッルス湖畔の戦いは紀元前496年頃に行われたとされ、ローマ側は独裁官(ディクタトル)アウルス・ポストゥミウス・アルブスと、独裁官ポストゥミウスのマギステル・エクィトゥムであったティトゥス・アエブティウス・エルウァ(Titus Aebutius Elva)らが軍を率いた。 一方のラティウム人側はラティウム都市トゥスクルムの王子であったオクタウィウス・マミリウス(Octavius Mamilius)とタルクィニウス、タルクィニウスの息子セクストゥスが指揮官となって、ラティウム軍を率いた。タルクィニウスが率いたことでローマ軍は過去のどの戦いより激しく戦い、激戦の末にローマ軍がラティウム軍を撃退した。 ポストゥミウスとアエブティウスはローマで凱旋式を挙げ、ポストゥミウスはこの戦勝を以てレギッレンシス(Regillensis)の称号を得た。一方のタルクィニウスはローマへ戻ることは無く、紀元前495年頃にクルシウム(現:キウージ)で死去した。 レギッルス湖の戦いが終わった後も暫くは戦争が継続されたが、紀元前493年に停戦した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラティウム戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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