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ラディスラフ・ドゥルホシュ : ミニ英和和英辞書
ラディスラフ・ドゥルホシュ[らふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

ラディスラフ・ドゥルホシュ : ウィキペディア日本語版
ラディスラフ・ドゥルホシュ[らふ]


ラディスラフ・ドゥルホシュ(Ladislav Dluhoš、1965年10月6日 - )はチェコ東部モラヴィア・スレスコ州フリーデク=ミーステク郡Čeladná出身の元スキージャンプ選手。1980年代中盤から1990年代にかけチェコスロバキアおよびチェコ代表として活躍した。

== プロフィール ==
1984年1月14日に地元ハラコフスキージャンプ・ワールドカップにデビューし4位となって周囲を驚かせた。
サラエボオリンピック代表に抜擢され90m級で12位。続く1984年ノルディックスキー世界選手権団体戦でヴラディミール・ポドジメックイジー・パルマパベル・プロッツともに銅メダルを獲得した。
オリンピック後のワールドカップでも3戦連続して一桁順位に入り総合21位となった。
1984-1985シーズンはシーズン前半不調で、1985年ノルディックスキー世界選手権でも90m級33位に終わった。しかし2月9日に札幌で自己最高位の2位となると、2月17日エンゲルベルクでも3位、スキーフライング世界選手権で5位入賞と成績を伸ばした。
1985-1986シーズンは1月25日に札幌で自己最高位タイの2位となるなど7試合で一桁順位に入り、総合でも自己最高位の10位となった。またスキーフライング世界選手権でも自己最高の4位となった。
1987年ノルディックスキー世界選手権では90m級29位、団体戦4位、70m級53位に終わり、ワールドカップ総合でも47位だった。
1988年カルガリーオリンピックでは70m級90m級とも14位、団体戦では4位。シーズン終盤は3試合で一桁順位に入り総合24位となった。
1988-1989シーズンもシーズン前半調子が上がらず、1月チェコのリベレツハラコフで一桁順位となってから調子を上げた。1989年ノルディックスキー世界選手権では90m級6位入賞、団体戦ではイジー・パルママルチン・シュバゲルコパベル・プロッツとともに銅メダルを獲得した。ワールドカップ総合は12位だった。
1989-1990シーズン、1月12日のハラコフで自己最高タイの2位となったが以降はなかなか良い成績があげられなくなってきた。1991年ノルディックスキー世界選手権ではノーマルヒル26位、ラージヒル25位、団体戦5位。1992年のアルベールビルオリンピックには出場出来なかった。
1993年にチェコ共和国スロバキア共和国が独立、1994年のリレハンメルオリンピックチェコ代表として2大会ぶりに出場した。
リレハンメルオリンピックにおけるスキージャンプ競技ではノーマルヒル2本目に進めず、ラージヒル30位、団体7位だった。
1994年12月11日のプラニツァで14位になったのを最後にワールドカップへの出場は無く、1995-1996シーズンの終了後30歳で現役引退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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