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ラバヌス・マウルス・マグネンティウス( または Hrabanus, Rhabanus、780年頃 - 856年2月4日)は、フランク人ベネディクト会士、ドイツ(フランク王国)のマインツ大司教、神学者。百科全書的作品『事物の本性』(羅:De rerum naturis)の著者である。文法学教授や聖書講解といったテーマでも論考を書いている。彼はカロリング朝期の最も傑出した教師・著述家の一人で、「ゲルマニアの教師」(羅:Praeceptor Germaniae)と呼ばれた。彼はローマ暦(''Martyrologium Romanum'', 2001, pp. 126f.)において聖人として2月4日に祝われているが、オンライン版カトリック百科事典では福者として名前が挙げられている。 ==生涯== ラバヌス・マウルスはマインツで貴族の家に生まれた。彼の誕生日は不明だが、801年には教育を受けたフルダの地で助祭に叙階されている。翌年、所属していた修道院の院長ラトガリウスの後押しによって彼はハイモン(後のハルバーシュタット司教)とともに修学のためトゥールへ行った。かれはトゥールでアルクィンを師として学んだが、アルクィンは彼の勤勉さ・純真さを見て取ると彼にマウルスの綽名を与えた。これはヌルシアのベネディクトゥスの愛弟子マウルスに因んだものである。2年後にフルダに戻ると、彼は修道院学校の校長の職務を任され、彼の下でフルダ修道院学校はヨーロッパでも有数の学問と写本作成の中心地となり、ワラフリド・ストラボ、フェリエールのセルヴァントゥス・ルプス、ヴァイセンブルクのオトフリドを輩出した。おそらくこの時期に彼は、中世に教科書としてよく使われたプリスキアヌスの文法書からの抜粋集を作成している。 814年になるとラバヌス・マウルスは司祭に叙階された。ラトガリウスとの意見の相違のためその後すぐに彼はしばらくの間フルダから出ていかなければいかなくなった。彼の『「ヨシュア記」註解』で暗に示されているために、このことがパレスチナ巡礼の契機となったのだと長い間理解されてきた。問題の一節はオリゲネスの説教第14『「ヨシュア記」の中で』(羅:In Librum Jesu Nave)から採られたものである。つまり、パレスチナにいたのはオリゲネスであってラバヌス・マウルスではない〔Throop, ''Hrabanus Maurus: De Universo'', vol. 1, p. x〕。彼は817年に新しいフルダ修道院長(アイギリス)が選出されるとともにフルダに舞い戻り、アイギリスが死亡すると自身が院長となった。彼はこの職務を842年まで勤勉に上手く勤め上げたが、学問と信仰のための大きな余暇をとるために職を辞して近隣の聖ペテルブルク修道院に引退した。 847年に、ラバヌス・マウルスはオトガリウスの跡を継いでマインツ大司教に就任し、再び公的生活に拘束されることとなった。彼は856年にライン川沿いの町ヴィンケルで世を去った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラバヌス・マウルス・マグネンティウス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Rabanus Maurus 」があります。 スポンサード リンク
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