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ラファエロのカルトン : ミニ英和和英辞書
ラファエロのカルトン[らふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

ラファエロのカルトン : ウィキペディア日本語版
ラファエロのカルトン[らふ]

ラファエロのカルトン』は、ルネサンス盛期の芸術家ラファエロ・サンティが描いた、ヴァチカン宮殿システィーナ礼拝堂の特別な儀典のときにのみ内装に飾られるタペストリの制作用下絵(カルトン)〔カルトン(、)とは厚紙を意味し、転じて美術作品制作時に下準備として厚紙などに原寸大で描かれた下絵を意味する用語である。「ラファエロのカルトン」は「ラファエロの(描いたあらゆる)下絵」を意味することになるが、展示先のヴィクトリア&アルバート博物館が『ラファエロのカルトン()』と呼称していることから、一連のシスティーナ礼拝堂のタペストリ用下絵を示すことが多い。〕。原寸大で10点のカルトンが描かれたが、現存しているのはイギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵する7点のみで、1865年からはロンドンヴィクトリア&アルバート博物館への貸与絵画として一般公開されている。『福音書』と『使徒行伝』のエピソードをモチーフとして、ローマ教皇レオ10世の依頼で1515年から1516年にかけて描かれた。このカルトンをもとにした版画も流通し、当時ラファエロの競争相手と目されていたミケランジェロが描いた『システィーナ礼拝堂天井画』などと並んでルネサンス期の芸術に多大な影響を及ぼした作品のひとつで、ルネサンス期、バロック期のあらゆる芸術家たちに非常によく知られていた作品だった〔''Raphael's Tapestries and Their Cartoons'', John White, John Shearman, ''The Art Bulletin'', Vol. 40, No. 3 (September 1958), pp. 193-221. Rather oddly, both Jones and Penny and Grove Art say, wrongly, that the V&A have eight of the ten cartoons.〕。18世紀から19世紀には「現代美術のパルテノン彫刻」として高く評価されていた〔Quoted in Wölfflin, Heinrich; ''Classic Art; An Introduction to the Renaissance'', p. 108, 1952 in English (1968 edition), Phaidon, New York.〕。
== ローマ教皇レオ10世からの依頼とタペストリ ==

ラファエロは、ラファエロ自身を忌み嫌っていたミケランジェロが1512年に完成させた『システィーナ礼拝堂天井画』に大きな興味を示し、ミケランジェロの絵画作品としては最大規模で複雑に構成されたデザインに強い関心を持っていた。
ローマ教皇レオ10世の当初の構想では、16点のタペストリが制作される予定だった。レオ10世からタペストリのカルトン制作を命じられたラファエロは、1515年6月と1516年12月の二回に分けて代金を受け取っている。1516年の代金受け取りは、おそらくカルトンの完成に伴う最終的なものと考えられる。ゴシック後期までタペストリはもっとも優れた芸術作品と見なされており、ルネサンス期になっても、タペストリの芸術的価値は高く評価されていた〔Thomas P. Campbell, Introduction, ''Tapestry in the Renaissance: Art a.nd Magnificence'', Metropolitan Museum of Art, New York, 2002 (exhibition catalogue), quoted here 〕。タペストリの制作費用は非常に高額なもので、そのほとんどが手作業による織上げ費用だった。このシスティーナ礼拝堂のタペストリの場合にも、カルトンを描いたラファエロに支払われた代金は1,000ダカットだったのに対し、タペストリに織り上げたブリュッセルの工房には15,000ダカットの代金が支払われている〔Jones & Penny:135〕。

このカルトンは、もとは何枚もの紙を張り合わせた台紙にテンペラで描かれていたものだったが、現在ではキャンバスで裏打ちされている。どのカルトンも縦は3mをわずかに超え、横は作品によって3mから5mという大規模な作品になっており、描かれている人物像も実物大以上の大きさで表現されている〔Raphael Cartoons; V&A website Accessed Nov 8, 2007〕。退色している箇所も見受けられるものの、保存状態は全体的に非常に良好である〔Jones and Penny:pp. 133-135〕。完成したタペストリはカルトンと左右が逆になっているほか、ラファエロが意図したデザインどおりには、必ずしも織り上げられてはいない〔''Right and Left in Raphael's Cartoons'' by A. Paul Oppe in the Journal of the Warburg and Courtauld Institutes, Vol. 7, 1944 (1944), pp. 82-94 analyses this aspect of the cartoons and tapestries〕。このカルトンの制作には、ラファエロが率いていた工房も大きな役割を果たした。工房の画家たちは非常に丁寧にカルトンを仕上げており、タペストリでは表現できない繊細な色使いまでも駆使している〔V&A website on the colouring. Wölfflin:108. 美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンは『ラファエロのカルトン』は弟子のジャンフランチェスコ・ペンニが事実上仕上げたとしているが、ジョーンズとペニーをはじめ多くの研究者はラファエロ自身がほとんどの部分を手がけたとしている。〕。『ラファエロのカルトン』以外にもシスティーナ礼拝堂のタペストリ製作のために描かれた小規模な下絵用ドローイングが現存しており、ロイヤル・コレクションには『エリマスの失明』の習作が〔Whitaker & Clayton: 82-3〕〔"The Art of Italy" in the Royal Collection 〕、カリフォルニアのゲティ美術館には『衣服を引き裂く聖パウロ』の習作がそれぞれ所蔵されている〔The Getty: St. Paul Rending his Garments .〕。これらの習作のほかにも多くのドローイングが制作されたと考えられるが、ほとんどが現存していない。
現存している7点のカルトンはおそらく1516年に完成し、ブリュッセルにあったヴァチカンお抱えのタペストリ職人ピーテル・ファン・アールストの工房へと送られた。本来の目的であるシスティーナ礼拝堂のタペストリとは別に、後年このカルトンをもとにした数点のタペストリが制作されている。これらのタペストリの中には、1542年にイングランド王ヘンリー8世が注文したタペストリや〔このタペストリは最終的にベルリンに保管されていたが、第二次世界大戦の空襲によって焼失している。〕、ほぼ同時期にフランス王フランソワ1世が注文したタペストリなどがある。カルトンは完成したタペストリと同時に返却されることもあったが、これら後年に制作されたタペストリの存在から『ラファエロのカルトン』はヴァチカンには返却されていないことが分かる。完成したタペストリには同じくラファエロのデザインによる、古代ローマの彫刻や飾り石などを模した精緻な縁飾りが施されているが、『ラファエロのカルトン』にはこの縁飾りは描かれておらず、おそらくは縁飾り専用のカルトンが別に存在していたと考えられている〔A good photo of ''The Miraculous Draught of Fishes'' from a slightly later set of 1545-57 from the Metropolitan.〕。タペストリには金糸、銀糸が使用されており、なかには後年になって貴金属を集める目的で兵士によって溶解された箇所もある。完成した最初のタペストリがヴァチカンに引き渡されたのは1517年のことで、1519年のクリスマスに7点のタペストリがシスティーナ礼拝堂に飾られた。これ以降、現在に至るまで『ラファエロのカルトン』から制作されたタペストリがシスティーナ礼拝堂に飾られるのは、特別な儀典のときのみに限られている〔。
ラファエロは、タペストリが織物職人の手によって全く別の素材で仕上げられるために、必ずしも自身のデザイン通りには完成しないことを理解していた。しかしながらラファエロがデザインしたカルトンはタペストリ用に簡略化したものなどではなく、力強い構成と訴求力を持つ作品単体としても通用するものだった。このラファエロの努力は、版画として再現されたカルトンでより効果的に表現されている。『ラファエロのカルトン』はバロック初期の芸術家系カラッチ一族〔バロック初期のイタリア人芸術家ルドヴィコ・カラッチアゴスティーノ・カラッチアゴスティーノ・カラッチ、アントニオ・カラッチらのカラッチ一族。〕に賞賛されていたが、もっともその影響力が強くなったのは16世紀のバロック期のフランス人画家ニコラ・プッサン以降といえる。プッサンは『ラファエロのカルトン』から多くを借用した作品を描き「ラファエロの作風を誇張し、『ラファエロのカルトン』を縮小したような作品を描き続けることに熱中した」といわれている〔Jones and Penny:142〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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