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ラフリーの敗北 : ミニ英和和英辞書
ラフリーの敗北[らふりーのはいぼく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
敗北 : [はいぼく]
  1. (n,vs) defeat (as a verb it means 'to be defeated') 
: [きた, ほく]
 (n) north

ラフリーの敗北 : ウィキペディア日本語版
ラフリーの敗北[らふりーのはいぼく]

ラフリーの敗北(ラフリーのはいぼく、、またはラフリー虐殺、)は、今日のアメリカ合衆国インディアナ州オーロラ近くで、1781年8月24日に行われた戦闘である。イギリス軍13植民地の間の紛争として始まったアメリカ独立戦争の一部であり、戦争が西部フロンティアに拡大して、そこのインディアンをイギリス軍の同盟者として戦争に巻き込んでいた。この戦闘は短時間で終わり、決定的な結果になった。一時的に西部に来ていたモホーク族の戦闘指導者ジョセフ・ブラントが率いる約100名のインディアンが、アーチボルド・ラフリーの率いるほぼ同数のペンシルベニア民兵を急襲した。ブラントとその部隊はアメリカ側兵士の全てを殺すか捕虜にし、しかも自部隊に損失を出さなかった。
ラフリーの部隊はイギリス軍地域本部のあったデトロイトに対する作戦のためにジョージ・ロジャース・クラークが立ち上げた軍隊の一部だった。クラークは北西部フロンティアでは傑出したアメリカ軍指揮官であり、バージニア知事のトーマス・ジェファーソンと共にデトロイトを占領し、インディアンの敵対行動をイギリス軍が支援しているのを終わらせようと期待して、この遠征を計画した。1781年8月初旬、クラークと約400名の兵士がペンシルベニアピット砦を船で出発し、オハイオ川を下ったが、ラフリーの部隊より数日先行していた。ラフリーは本隊に追いつこうとしていた。
ジョセフ・ブラントの部隊はクラークの攻勢に対抗するために立ち上げられたイギリス軍とインディアンの連合軍の一部だった。ブラントはクラークの部隊に対抗するには兵士が足りなかったが、クラークとラフリーの間の伝令を捕まえて、ラフリーの少数部隊が後方から来ていることを知った。ラフリーが兵士と馬に食を与えるために上陸したとき、ブラントが急襲を掛けて大成功に導いた。クラークはその作戦に必要と考えた兵士を徴兵していただけだったので、ラフリーの部隊を失ったことで遠征そのものを中止することになった。
== 背景 ==

オハイオ川渓谷では主にアメリカ植民地南部と西部(西ペンシルベニア、西バージニアおよびケンタッキー)の植民者と、オハイオ川北岸(現在のアメリカ合衆国中西部)にいるイギリス軍と同盟したインディアンとの間でアメリカ独立戦争が戦われていた。イギリス軍はデトロイトの拠点からインディアンの戦士部隊を徴兵し物資を補給してアメリカ側の砦や開拓地を攻撃させ、独立戦争の主戦場である東部からアメリカ側軍事資源を分散させると共に、インディアンと魅力ある毛皮交易をしっかりとイギリス帝国に結びつけておこうと期待していた。オハイオ領土のインディアンは主にショーニー族、ミンゴ族、デラウェア族およびワイアンドット族であり、ケンタッキーからアメリカ人開拓者を追い出して、スタンウィックス砦条約(1768年)やダンモアの戦争(1774年)で失っていたその狩猟場に対する権利を取り戻すことを期待していた〔For more background on the war in the West, see 西部戦線 (アメリカ独立戦争). A standard academic history of the Ohio River border war is Downes, ''Council Fires''.〕。
アメリカ側はオハイオ川北岸にある敵対的インディアンの集落に対して散発的な遠征を行うことで、ケンタッキーを確保し、その地域に対する領有権を確実にしようとしていた。ケンタッキーに居たバージニアの軍隊士官であるジョージ・ロジャース・クラークは、デトロイトを占領することでこの境界戦争に最終的に勝利できると考えた。このための基礎工作として、1779年にイギリス軍前進基地であるビンセンズを占領し、デトロイトのイギリス軍指揮官であるヘンリー・ハミルトン副知事を捕まえていた〔James, ''George Rogers Clark'', 147–8.〕。クラークは「この一撃でインディアンとの戦争をほとんど終わらせることになる」と語っていた〔James, ''George Rogers Clark'', 151.〕。1779年にデトロイト方面作戦の準備を行い、1780年にも再度行ったが、兵士と物資が集まらずにどちらも中止された。クラークは「人が居なくてはデトロイトは取れない」と嘆いていた〔James, ''George Rogers Clark'', 171–2; Downes, ''Council Fires'', 247.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラフリーの敗北」の詳細全文を読む




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