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ラムタラ : ミニ英和和英辞書
ラムタラ[らむ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラム : [らむ]
 【名詞】 1. (1) lamb 2. (2) rump 3. (3) rum 4. (4) RAM (random access memory) 5. (P), (n) (1) lamb/(2) rump/(3) rum/(4) RAM (random access memory)

ラムタラ : ウィキペディア日本語版
ラムタラ[らむ]

ラムタラ', 1992年2月2日 - 2014年7月6日)は、アメリカ合衆国で生産され、イギリスアラブ首長国連邦ドバイで調教された競走馬。イギリスと日本では種牡馬としても供された。
1994年にデビュー。初戦を勝利したのち、翌1995年春に長期休養明けでイギリスのクラシック競走ダービーステークスに優勝。その後夏から秋にかけて、古馬(4歳以上馬)を交えたイギリスの最高格競走・キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(以下、「キングジョージ」と記述)と、同様のフランスの競走・凱旋門賞を無敗のまま制覇し、1971年のミルリーフ以来、史上2頭目のヨーロッパ三大競走完全制覇を達成した。通算成績は4戦4勝。
競走馬引退後はイギリスで種牡馬入りしたが、1996年に日本の生産者団体が3000万ドルで購買、日本へ導入されたことで、競馬を離れた一般の耳目も集めた。しかし期待された産駒成績は挙がらず、2006年にイギリスへ買い戻され、以後は同地で余生を送った。
馬名は古アラビア語とされるが、訳は定まっておらず、英語では「invisible(目に見えないもの)」、日本語では「決して見ることがない〔江面(2000)p.25〕」、「神の見えざる力〔『季刊名馬』p.7〕」といった訳がある。また、石川ワタルは「無敵 (invincible) 」という意味であると紹介している〔『優駿』1995年8月号 p.115〕。管理調教師の殺害や、自身の生命の危機の克服、その戦績と馬名との連想などから、日本においては「奇跡の名馬」または「神の馬」とも紹介された。, 1992年2月2日 - 2014年7月6日)は、アメリカ合衆国で生産され、イギリスアラブ首長国連邦ドバイで調教された競走馬。イギリスと日本では種牡馬としても供された。
1994年にデビュー。初戦を勝利したのち、翌1995年春に長期休養明けでイギリスのクラシック競走ダービーステークスに優勝。その後夏から秋にかけて、古馬(4歳以上馬)を交えたイギリスの最高格競走・キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(以下、「キングジョージ」と記述)と、同様のフランスの競走・凱旋門賞を無敗のまま制覇し、1971年のミルリーフ以来、史上2頭目のヨーロッパ三大競走完全制覇を達成した。通算成績は4戦4勝。
競走馬引退後はイギリスで種牡馬入りしたが、1996年に日本の生産者団体が3000万ドルで購買、日本へ導入されたことで、競馬を離れた一般の耳目も集めた。しかし期待された産駒成績は挙がらず、2006年にイギリスへ買い戻され、以後は同地で余生を送った。
馬名は古アラビア語とされるが、訳は定まっておらず、英語では「invisible(目に見えないもの)」、日本語では「決して見ることがない〔江面(2000)p.25〕」、「神の見えざる力〔『季刊名馬』p.7〕」といった訳がある。また、石川ワタルは「無敵 (invincible) 」という意味であると紹介している〔『優駿』1995年8月号 p.115〕。管理調教師の殺害や、自身の生命の危機の克服、その戦績と馬名との連想などから、日本においては「奇跡の名馬」または「神の馬」とも紹介された。
== デビューまで ==
1992年、アラブ首長国連邦ドバイの王族モハメド・ビン=ラーシド・アル・マクトゥームがアメリカ合衆国ケンタッキー州に所有するゲインズバラファームで生産される。父ニジンスキーは1970年のイギリス三冠馬であり、種牡馬としても数々の活躍馬を輩出していた。母は1989年のオークスを2位入線からの繰り上がりで優勝したスノーブライド。ニジンスキーはラムタラ誕生の2か月後に老衰で死亡し、その最終世代の産駒となった〔江面(2000)p.22〕。
翌1993年7月、マクトゥーム一族所有馬の専属調教師の一人であったアレックス・スコットに見初められ、同年冬にはイギリスニューマーケットのオークハウス厩舎に移動した〔『書斎の競馬(3)』p.232〕。その後モハメドの甥サーイド・マクトゥームの所有馬となったが、サーイドは18歳の学生であったため、実質的な所有はモハメドが創設した競走馬管理組織ゴドルフィン・レーシングが行った〔。スコットのアシスタントを務めていたデイヴィッド・フィップスによれば、入厩当初のラムタラは穏和で、優れた馬ではあったが、凱旋門賞などの大競走を制すると予感させるほどではなかった〔『書斎の競馬(3)』p.233〕。しかしスコットはその素質の高さを確信し、本格的な調教が始まった頃には妻ジュリアに対し「ダービー馬になる」と予告していた〔『書斎の競馬(3)』p.234〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラムタラ」の詳細全文を読む




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