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ラムリー島の戦い(ラムリーとうのたたかい)は、太平洋戦争中の1945年1月21日に、ビルマ(現ミャンマー)のラムリー島を奪還するためにイギリス軍が上陸し、日本軍と戦った戦闘。約1ヶ月の戦闘で日本軍は敗れて撤退し、イギリス軍が島を占領した。島には飛行場が整備され、イギリス軍のラングーン侵攻作戦などに活用された。 == 背景 == 1942年(昭和17年)にビルマ全土を占領した日本陸軍は、ラムリー島(ラムレー島)を第28軍の第54師団の守備地区に含めていた。ラムリー島は日本軍拠点アキャブ(現シットウェー)への海上補給線の要所であり、飛行場の整備も可能であった。そこで、第28軍も当初はラムリー島を極力確保する方針で、1943年9月末の時点ではラムリー島と南隣りのチェドバ島に第54師団隷下の歩兵第121連隊の2個歩兵大隊や2個砲兵中隊などを配置していた〔戦史叢書『インパール作戦』、262頁。〕。 1943年(昭和18年)12月30日から31日には、イギリス艦隊がラムリー島に艦砲射撃を加え、小規模な地上部隊が一時的に上陸したが、特に大きな陸戦にはならなかった。第5飛行師団の重爆撃機12機と戦闘機14機が2波に分かれてイギリス艦隊を追撃し、命中爆弾1発を報じたが、護衛戦闘機との交戦で重爆5機と戦闘機1機が被撃墜・不時着する損害を受けた〔戦史叢書『第三航空軍の作戦』、418頁。〕。イギリス側の護衛戦闘機は第136飛行隊のスピットファイア12機で、1機を失っている〔Odgers(1968) “Chapter 16 – Australians in Burma ”, p.278〕。 1944年(昭和19年)のインパール作戦に敗れた日本のビルマ方面軍は、アキャブ島の放棄などを決断した。そこで、編成変えや第二次アキャブ作戦の失敗で戦力が低下していた第28軍は〔第28軍は、再編成により第2師団を抽出されていた。また、先の第二次アキャブ作戦で第55師団が大損害を受けていた。〕、アキャブ放棄によりラムリー島の戦略価値も低下したとして守備の重点を本土に集中させることにし、歩兵第121連隊の第2大隊のみを残して、守備隊主力を本土のタンガップ(タウンガップ, :en:ToungupまたはTaungup)などへと移した。同年7月策定の第28軍の迎撃計画「完作戦」ではラムリー島とチェドバ島は確保を断念し、飛行場利用妨害のための持久戦地区にとどめられ〔戦史叢書『イラワジ会戦』、435-436頁。〕〔第28軍司令部の希望としては、監視用の1個中隊程度を残すだけとしたかった。しかし、ビルマ方面軍司令部の指示でなるべく持久を図ることとなった。そのため配備兵力も1個大隊となった。〕、現地の第54師団も同様に決戦は回避する方針を立てた〔戦史叢書『イラワジ会戦』、459頁。〕。両島はタンガップ地区隊(隊長:歩兵第121連隊長 長澤貫一大佐)の管理下とされた〔タンガップ地区隊は、歩兵第121連隊(1個中隊欠)を基幹に、砲兵第54連隊の1個大隊と捜索第54連隊第4中隊、工兵第54連隊の一部から成る。〕。 一方、1944年後半、ビルマ戦線での本格反攻に移ったイギリス軍は、マンダレーやメイクテーラなど中部ビルマ方面への航空支援用拠点を確保するため、アキャブ島およびラムリー島を占領することを決めた。同時に両島への日本側の陸上交通を遮断するため、ベンガル湾岸のミエボンへも上陸することにした。当初は1月の小規模攻撃と3月の本格攻撃の2回に分けて行うつもりであったが、アラカン山脈での地上進撃が予期したよりも順調であったため、1月の全面侵攻へと予定が繰り上げられた。ラムリー島上陸作戦は「マタドール作戦」、南隣りのチェドバ島上陸作戦は「サンキー作戦」と命名された。イギリス陸軍第15軍団司令官フィリップ・クリスティンソン(en)中将を指揮官に、参加兵力は英印軍の第26インド師団(長:シリル・ロマックス少将)のほか、イギリス海軍の戦艦1隻・護衛空母1隻・軽巡洋艦その他から成る艦隊、部隊輸送用の各種輸送船・揚陸艦9隻と上陸用舟艇55隻およびモーターランチ(en)20隻、イギリス空軍第224航空群などとなった〔Capture of Ramree Island - Burma 1945 (2010年7月3日閲覧)〕〔Gill(1968) “Chapter 20 – The RAN in Burma ”, p.567〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラムリー島の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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