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ラム酒の反乱(Rum Rebellion)は、1808年に起きた暴動で、オーストラリア史で唯一成功した、武力行使による政府の乗っ取りである。19世紀にはこの反乱は広く大乱(Great Rebellion)と呼ばれた。ニューサウスウェールズの総督ウィリアム・ブライは、少佐指揮下の及びその軍団と緊密に連携したジョン・マッカーサーにより、1808年1月26日に総督職を退任させられた。アーサー・フィリップがオーストラリアにヨーロッパの植民地を建てた、その20年後のことであった。その後、ニューサウスウェールズは軍の支配下に置かれ、軍の上級士官がシドニーに駐屯して総督代理としてふるまった。この軍による支配は、1810年の始めに、ラックラン・マッコーリー陸軍少将が総督としてイギリスから赴任するまで続いた。 ==ブライ総督の就任== ウィリアム・ブライはイギリス海軍士官、第4代ニューサウスウェールズ総督であって、バウンティ号の反乱で自らが指揮していた艦から追われたことで著名な人物である。ブライが総督の後任となったのは1805年のことで、サー・ジョゼフ・バンクスから総督就任を勧められた。勤勉な人物であるという評価ゆえに、イギリス政府から選任されたと思われる。ブライは、前任者が手に負えなかった、反体制側のニューサウスウェールズ軍団を徹底的に抑え込むことを期待されており〔Duffy, pp. 248–9〕、娘のメアリー・パットランドと、その夫と共にシドニーへ向かったが、妻はイギリスに残った〔Ritchie, p. 102〕。 しかし、まだシドニーに到着もしないうちから、ブライの仕事のやり方は、部下たちとの間に問題を生ずる結果となった。海軍本部は、補給艦のポーポイズとその護送船団の指揮を、階級の低いジョセフ・ショートに任せ、ブライには輸送艦の指揮を命じた。これによって両者の間に仲たがいが生じ、ついにはショートがブライを信号に従わせようとして、ブライの艦の船首を砲撃するに至った〔。これは失敗に終わったため、ショートは、ブライの娘婿であるパットランド海尉に、ブライの艦の砲撃準備をする命令を与えようと試みた。。しかしブライはショートの艦ポーポイズに乗りこみ、護送船団の支配権を強奪した。 一行はシドニーに到着し、ブライは、ショートの2人の部下の供述に後押しされ、ポーポイズの艦長の座を剥奪して娘婿にその座を与えていた。また、航海の報酬としてショートが約束されていた400エーカーの土地の払い下げを取り消し、ショートを軍法会議に出廷させるためイギリスに送り返したが、無罪放免となった〔 。この会議の議長であるは海軍本部に手紙を送り、ブライに対する重要な告発を何件か行った。その告発の中には、ショートに不利な発言をするように士官に働きかけたことも含まれていた。ブライの妻は、士官の一人からこの証言を入手したが、士官はこれを否定し、バンクスをはじめブライの支援者たちは、ブライの召喚を食い止めるため当局に対してうまく圧力をかけた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラム酒の反乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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