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ラモン・アンヘル・ディアス(Ramón Angel Díaz、1959年8月29日-)は、アルゼンチン、ラ・リオハ出身の元同国代表のサッカー選手(FW)、サッカー指導者。 == 来歴 == U-20アルゼンチン代表の一員としてのぞんだ1979年のワールドユース選手権で大会得点王に輝き、最優秀選手に選ばれたディエゴ・マラドーナと共にチームを優勝に導く立役者となる。この活躍が認められ、翌1980年にはフル代表デビューを果たし、レギュラーとして活躍。 1982年にはスペインで行われたワールドカップにも出場し(同大会の開幕戦のキックオフは、ディアスからマラドーナへのパスであった)、ブラジル戦ではゴールを記録。しかし、マラドーナの退場などによりこの試合に敗れ、チームは2次リーグで姿を消すこととなった。 結果的には、これがディアスの最後の代表戦となった。代表の決定力不足が指摘され、ディアスの復帰要望が国民から出たこともあったが、結局復帰することはなかった。当時のアルゼンチン代表は、マラドーナを中心としたチームづくりを行っていたため、確執のあったディアスが外されたという説も根強い(ダニエル・パサレラも、同じ理由から代表を外されたと言われている)。代表には縁がなくなったディアスだが、クラブでは1982年にSSCナポリへ移籍したのを皮切りにセリエAを中心に活躍、ストライカーとして確固たる地位を築き上げた。インテル・ミラノでは88-89シーズン、ローター・マテウス、アンドレアス・ブレーメらとともにチーム8年ぶりのスクデット獲得に貢献。90-92年にはASモナコにおいてアーセン・ベンゲルのもとでプレーした。 1993年に開幕したJリーグにおいて、横浜マリノスに在籍。ゲーリー・リネカーなどすでにピークを過ぎ活躍できなかったスター選手が多い中で、ディアスはJリーグで初めて2試合連続ハットトリックを決めるなど32試合で28ゴールを挙げ、Jリーグ初代得点王に輝いた。2年目の1994年も主力として活躍。 1995年、ホルヘ・ソラーリ新監督のスタイルに合わないと判断したディアスは、6試合に出場したのみで、シーズン前半にチームを退団、そのまま現役を引退することとなった。ほとんど左足だけでゴールを量産し、当時日本では黄金の左足と呼ばれるほどだったが、現役最後のゴールは右足で決めたものとなった。 引退後にはリーベル・プレートなどで監督経験もあり、指導者としても高く評価されている。ホルヘ・ソラーリとはウマが合わなかったディアスだが、ホルヘの甥であるサンティアゴ・ソラーリは選手として高く評価しており、重用していた。 2014年12月4日、パラグアイ代表の監督に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラモン・ディアス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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